「アートの時間は なんか自由」と3歳の子が言ってくれた
「アートの時間は、なんか自由だから楽しいんだよね、って、3歳クラスの男の子が、この前言ってたんですよ」と、園の先生が嬉しそうに話してくれた。
今年から新しくアートクラスがスタートした保育園で、活動の片付けをしている時だった。
それは、嬉しいな。色々嬉しい。
1つ目の嬉しいは、3歳の男の子が「アートのクラスは楽しい」と感じてくれたこと。私自身は、子どもたち1人1人が自分のこだわりたいことに、しっかり関われるような時間にしたい、と思っているけれど、「アートは自由な時間ですよ」と言っている訳ではない。その時間を、子ども自身が「自由」で、だから「楽しい」と感じてくれたんだったら、とても嬉しいな、と思う。
自由って一体何なのか、私も明確に定義できないけれど、今のところアートの時間は、あまり「アレは使ったらダメ」「そんな風にやっちゃダメ」「先生の言うとおり、こうしなくちゃダメ」とは言っていない。素材を用意して、「はいどうぞ!」と言うだけ。子どもたちは、自分で何をしようか、何をしたいか、と考えて、取り組んでいる。
それから、素材には制限を設けない。クレヨンの活動の時は、「今日は何枚でも、好きなだけ描いてもいいですよ」と言ったら、何枚も何枚も、ずっと描き続けている子もいた。多い子で10枚くらい描いていただろうか。
一方、3枚くらいで、「これで、おしまい!」という人もいる。余白がたくさんあっても「もう、これでいい!」という人もいる。それでもいい。自分の作品の「おわり」は自分で決めたらいい。
あぁそうか、私の活動は、ゴールを私自身が決めていないことが多い。なんとなく、「こんな感じの作品ができるかな」「こんな体験にチャレンジできたらいいな」と想定はしているけれど、それは、私の中で考えているだけ。子どもが行きつく先は、1人1人違う。クラスによっても違う。その「ゴールを自分で決める」活動は、子どもたちにとって、「自由」を感じさせるものなのかもしれない。
2つ目の嬉しいは、「自由だから楽しい」という子どもの発言を、先生が好意的に受け止めてくれたこと。
保育園において、たぶん、私は異質な存在なんだと思う。
材料や道具を配る時、先生方は「まだ触ったらだめよ!」と必ず言う。私は、よほど説明が必要じゃない限り、あんまり言わない。何なら、配りながら「触ってみて」って言っちゃう。
何の活動をするのか説明をする時も、先生方は「ちゃんと、みえさんの言った通りにやって!」と言う。でもまぁ、私の言った通りにやらなくてもいいんだ。あくまでも1つの方法にすぎないので。それで、子どもたちが自己流でやって、うまくできなかったり、思い通りにならなくても、それも活動のうちだしね。
最近は、「私のおすすめは、●●というやり方だけれど、そうじゃない方がいい、という人は、その通りにしなくてもいいよ。」という風に説明することにした。
そういう、「必ずしも大人の言った通りにしなくてもいい」という振る舞いや、子どもたちの手足が、絵の具まみれや、小麦粉まみれになる活動は、もしかして先生方にとって迷惑だったり、負担だったり、普段のルールが守れなくて困っていたりするんじゃないか、と、少し心配していたのも確か。
なので、「自由で楽しい」と言う子どもの発言を、先生が喜んでくれたってことは、私の活動の「自由さ」を、先生もそれなりに面白がってくれているのかな、と思って、とても嬉しかったのだ。
子どもたちに対する振舞い方として、どうするのが適切かは、なかなか難しい。私自身の振舞い方が理想である、とも思っていない。ただ、保育園や幼稚園、学校という場は、場の内側だけで全てが完結してしまい、そこに所属する大人の在り方が同質化され、「それだけが正解」になってしまう、という危うさをはらんでいると思う。
そういう意味では、「その場に所属している人とは、ちょっと違う価値観を持つ外の風」があるって、いいんじゃないかな。価値観が広がるし、もしその場に窮屈さを感じている人がいたとしたら、その人たちにとって、ちょっと安心できる何かを提供できるかもしれない。
それが、外部講師である私の役割なのかもしれないな、と最近思うようになった。
これからも、外から風を吹かせる人、として、自分のできる限り自由に、場を作っていきたいなぁ、と、改めて思う。