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言葉は 物語の世界を司る
翻訳の大切さを知ったのは、「大草原の小さな家」シリーズの中の1冊『長い冬』を読んだときのことだった。
「大草原の小さな家」シリーズを、私は最初、講談社青い鳥文庫で読んだ。こだまともこさんと、渡辺南都子さんの翻訳。
くせがなくて読みやすい日本語だったと思う。
NHKで放映していたテレビドラマは、数回しか観ていないけれど、かっこいい父さん(マイケルランドン!)や、上品な母さんのイメージとも重なり合い、どちらも同じ物語として、何の違和感もなかった。
ローラの成長記は面白く、シリーズの本をどんどん買ってもらって、『この輝かしい日々』まで、全部読んだ。ただ、講談社青い鳥文庫では、『長い冬』だけが出版されていなかった。(きっと著作権関係の事情だと思う。)じゃあ、出版社が違ってもいいよね、と、岩波文庫から出版されている『長い冬』を買ったのだ。
最初のページをめくった瞬間、驚いた。別の物語が始まったと思った。
それまで、両親に「父さん・母さん」と呼びかけていた子どもたちは、「父ちゃん・母ちゃん」と呼ぶ。「~じゃないかしら?」と穏やかに話していた母さんは、「父ちゃん、ちがうよ、~だよ。」と声をあげる。
家族には愛情たっぷりで、町の人から一目置かれる知識人だった父さんは、愛情たっぷりには違いないけれど気のいいオジサンみたいだし。上品で知性あふれ、子どもたちの振る舞いや言葉遣いに厳しい母さんは、肝っ玉母ちゃんになっていた。まるで、違う人。
翻訳が違えば、違う物語になる、ってことを、衝撃的なほどに実感した。
大人になって、ふと思い出し、あまりに気になったので、調べてみて、『長い冬』は、ローラのシリーズの中でも一番最初に日本語に翻訳された1冊であり、それは1955年と突出して古いことを知った。(福音館書店から恩地三保子さんの訳でシリーズ前半の5冊が翻訳されたのが1972~72年。NHKでテレビドラマの放映が開始したのは1975年。)
英語に対してどちらの翻訳が正しいか、という話ではなく、物語の世界観をどうイメージするのかによって、日本語のニュアンスが変わる、ということだと思う。もしかしたら、ローラの家族のような開拓使の暮らしは私たちが想像するよりもずっと過酷で、『長い冬』のような生命力の強さが求められる生活だったのかもしれない。
でも私は、インガルス一家は、生活は苦しくとも、父さんはバイオリンを弾いて家族を楽しませ、母さんは過不足なく生活を整え、「きちんとした心豊かな暮らし」を送ろうとする、誇りを持った家族だと思っていたので、『長い冬』の翻訳は最後までなじまなかった。もちろん、好みに過ぎないけれど。
そんなことを思い出したのは、『星の王子さま』の翻訳の違いを論じたものを目にしたから。
2005年に著作権の有効期限が切れて、日本国内でびっくりする程の数の「違う翻訳」が出版された『星の王子さま』。腕に覚えのある人が「自分の訳で世に出してみたい」と思うような、魅力があり、手ごわさがある作品だからに違いない、と勝手に思っている。
私は、小学生の頃に内藤濯さんの翻訳で読み、いくつかのフレーズがアタマの中に残っているので、もうこれ以外の表現は考えられないのだけれど。
それはそれとして、私の思い描く「王子さま」のまとう雰囲気というものが、そもそも内藤濯さんの翻訳によって描かれたイメージだった、ということに、他の人の訳との比較で気づいた。
私の思い描いていた王子さまは、最初から身体が半分透けているような、ちょっぴり地面から足が浮いているような、そういう、この地球上にいる生物とはちょっと違う雰囲気を持っていた。言葉も、そっけない。「僕」と話しているようでありながら、どこか、「僕」を通り越して、遠くの風と話しているような、そんな、微妙に会話のかみ合わない感じが、王子さまの不思議さを際立たせていたし、魅力でもあった。
最初から、このままずっと地球に居続ける存在ではないだろう、という予感がするくらい、地球にふさわしくなかった。
そして、「僕」も、どこか他人行儀。王子さまと、どう接していいのか戸惑っていて、言葉は丁寧なんだけれど、丁寧な分だけ、距離をおいている。
だから、お別れが近くなった場面で、王子さまが「僕」のことを、友達、と呼んでくれた時、ちょっと意外な感じがした。つかみどころがなかった王子さまだけれど、「僕」の存在を大切な人として認めてくれていたのか、と、意表を突かれた。だからこそ余計に、王子さまの寂しさが切なかった。本当は、心の底では、「僕」を近しく思ってくれていたんだな、って。
そんな王子さまが当たり前だったから、他の翻訳で、「子どもらしさ」や「やんちゃさ」「人懐こさ」を印象付けるような言葉遣いで話している王子さまを観て、「へーぇぇ」と思った。そんな王子さま像、考えたこともなかった。でもそれは、私が内藤訳を通して「王子さま」と出会っていたからであって、フランス語で出会っていたら、そこには全然違う「王子さま」がいたかもしれない。
日本語ではない言語で描かれた物語と出会う時、翻訳の果たす役割は、私たちが気づいている以上に大きいのに違いない。だって、翻訳によって、世界が変わるもの。
だからこそ、特に絵本や児童書の分野における翻訳の大切さが本当に分かる。児童文学者として創作においても優れた作品を残している人たちが、海外の児童文学の翻訳をしていることが多いのも、うなずける。
そんなところに意識を向けると、物語を読む楽しみが、ますます深くなりそう。そこにも注目しながら、絵本を紹介していけたらいいな。