「よく見て描きましょう」って言うのは 何も言ってないのと同じよね
絵が描けない。
「玩具メーカーの新人時代に、ドラえもんが描けなくて、先輩に笑われた」と言う話が分かりやすいので、しばしばネタにしているけれど、まぁ、絵が描けない。
ドラえもんは、まぁ、仕方ない。絵描き歌の通りに描いたら、商品企画書の絵としては、のっぺりしすぎていたのだ。
ただ、ドラえもんに限らず、「どうしたら、自分の想い描いたものが描けるのか」というのは、一度も教わったことがないなぁ、と思う。遠近法、などという言葉を聞いたことはあっても、どうしたら立体的に見えるのか、影をつける基本は何か、人の身体を描く基本はあるのか、骨格はどうしたらいいのか・・・とか、絵画技法の知識があれば、もう少し何とかなっただろうと思えることは、何も教わっていない。
小学校の時も中学校の時も、「よく見て描きましょう」と言われるばかり。
「よく見る」って何も言っていない。
例えば、1枚の絵を、「この絵をよーく見てね」と見せられて、よーーーーく見てから絵を隠し、もう1枚のよく似た絵を提示されて「さぁ!間違い探しです。さっきの絵と違うところはどこでしょう?」と問題を出されても、答えられる自信は全くない。目的が与えられないままに「よーく見る」ことと、間違い探しという目的に沿って「よーく見る」ことは、見方が全然違う。間違い探しのために見るとしたら、「人が身に付けている小物や髪型などに注目しよう」「複数個あるものは、必ず数を数えよう」などと、「見るポイント」がある。
どんな「見る」にも、目的に合わせた「見るためのポイント」がある。
私は、文字校正には自信がある。それも、小説や論述のような長い文章ではなく、お客様へのご案内とか、注意喚起とか、取扱説明書のような、どちらかと言えば「必要事項を伝えるための事務的な文章」の文字校正。
玩具メーカーに勤めていた頃、商品のパッケージと取扱説明書は、必ず部署の全員で目を通した。
この時は、文字を1文字ずと赤ペンで消しながら校正をする。よく知られた話だが、人の目は、文字の順番が多少入れ替わっていても、脳で補正して読めてしまう。だから、ただ漫然とチェックしているだけでは、「こちらの」が「こらちの」になっていたとしても、気づきにくい。だから、1文字ずつ確実に読み、赤ペンで消していくことで、小さなミスにも気づけるようにしている。あと、決して間違えてはいけないのが、「お客様サービスセンターの電話番号」これも、数字を1個ずつ確認する。
でもこれだって、「お客様サービスセンターの番号は、必ず1文字ずつ確認してね」と言われなければ、当然あっているものとして、読みもしないかもしれない。
「よく見てね」ではなくて、目的に照らして、「ここに注目して、この部分は絶対間違いがないように、チェックしてね」と言わなくてはいけない。
図工の絵も同じだと思うんだけれどなぁ。
写生会で、歴史的建造物に行った時も、動物園に行った時も、同じように「よく見てね」と言われた。けれど、私のように絵が描けない人にとっては、「よく見る」って言われても、何を見たらいいのかが分からない。だから、「何に注目してみたらいいのか」をまず教えて欲しい。(「見たものをどうやって絵にするのか」も知りたかったけどね。)
「よく見る」は、何も言っていないのと同じこと。何をしたらいいのか分からないもの。本人的には「よく見ているつもり」なんだけれど、たぶん、私は絵を描くために必要な情報は何一つ受け取れていなかった。そして、目の前の情景を絵にするにはどうしたらいいかも、ずっとずっと分からなかったんだよね。(今も分からない。)
せっかく図工と言う授業があるなら、そういう、「誰でも絵が描けるようになるワザ」を教えて欲しかったのになぁ。そうしたら、先生の好みとか、先生の感性と合うか合わないか、とか関係なく、知識として学ぶことができたのにね。
そして、もし学校の先生たちには、そんな絵画の知識とか教えられないよ、というのなら、(図工の専科の先生がいるのは限られた都道府県だけだと聞く)何かを教えているふりをしたり、それを元に成績をつけたりするのはやめて、完全に「楽しい制作」に振り切り、成績を付けることもやめればいいと思う。「よく見て描きましょう」なんて、何も言っていないことと同じだから。そんな曖昧なことしか言えないくらいなら、「絵を描くって楽しい!」「作るって楽しい!」って思える時間にしてくれた方が、ずっといい。
というのが、まぁ、絵が描けない私の、恨み節でありました。ほんとのこと言えば、もっともっと教えてくれたらよかったのに、って思っているのです。