「天職」は出合うものではなく 育てるもの
昨日、ふとニーバーの祈りを思い出したのは、長らくキャリア支援をしている人と話をしたことがきっかけです。
「家業を継ぐ」ということについて、話しました。
家業を継ぐ、という仕事の選び方って、自分で選択する自由がなくて、家族のために自分を犠牲にしているように思われがちなのだけれど、実際に家業を継いだ人に聴くと、そればかりでもないんだよ、という話でした。
他の人より何年も前から就職先が決まっているってことなので、従事する仕事への覚悟もできているし、どんな風に働こうか、どんなチャレンジをしようかと、色々考えたり準備をしたりできる、と言うのです。
まさに〈変えられないものを受け入れる心の静けさ〉だな、って思ったんです。自分に与えられた仕事が決まっているからこそ、その中で、工夫したり、もっと良くしたりと、色々考えることができるのかもしれません。
そして、これは勝手な想像ですけれど、家業を継ぐ人や伝統を継ぐ人って、きっとどこか(中高生とか大学生くらい)で、自分で考えて〈決断〉しているんじゃないかな、と思うのです。
一般の学生が就職先を選択するのと同じように、家の仕事に従事することを自分で選択するタイミングがあるんじゃないかなぁ、って。
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家業のように、仕事が決められている人じゃなければ、自分はこの仕事でやっていこう、って、覚悟を持つことって、難しいことです。今の職場以外のところには、もっと自分に合う仕事があるかもしれない、と思ってしまうこともありますよね。
最初から100%満足できる仕事って、あんまり多くはないと思うんです。最初は60%くらいの満足度で、働いているうちに、仕事そのものに対して愛着も湧いてくるし、自分なりの関わり方も分かってきて、だんだんその仕事と自分が馴染んで、満足度が上がっていく。
でも、最初の60%くらいの満足度の時に、なんとなく馴染まない40%の方に意識が向いてしまうと、自分に合わないような気になってしまうんですよね。
個人事業主として働き始めてしばらくは、私も、「どこかに自分の天職がある」と思っていました。何か新しいアイディアを思いついたり、新しい事業をご紹介頂くたびに、「これこそが私の天職で、私はこのためにフリーになったのかもしれない」とワクワクして、少し経てばやっぱり違った、とがっかりすることの繰り返しでした。
この時期は「個人事業主として働き始めたからには、自分が本当にやりたい何かを見つけないといけない」と、自分に自分でプレッシャーをかけて、本当に苦しかったです。今になってみれば、「天職」とか「自分が本当にやりたいこと」というのは、幻想だったと思うのです。
出合った仕事に、1つ1つ真摯に取り組めば、その仕事と自分とが馴染んで、どんどん適合していきます。そうなった状態のことを「天職」と呼ぶんじゃないかな。
いわば、「天職」には出合うんじゃなくて、育てるんだと思うんです。
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この仕事は自分には合わない、この職場ではチカラが発揮できない、自分にはもっと成し遂げたい仕事がある・・・と思って、新しい働き場所を求めるのは、〈変えられるものを変える勇気〉です。
同時に、この仕事は自分には合わないかもしれないけれど、もう少し努力してみよう、違うアプローチも試してみよう、詳しい人に助けてもらおう・・・などと、今ある環境で、もっと良い方法を探すことは、〈変えられないものを受け入れる心の静けさ〉かもしれません。
どちらも、それぞれに正しいんですよね。だから、どちらが正解かなんて、誰も分からない。だからこそ、〈両者を見分ける英知〉が必要なのだけれど、でも、この〈英知〉だって、神様の審判のような絶対的なものではないと思うのです。きっと、自分にとっての英知。
だから、結局のところ、最後の決断を人任せにしないこと。他者や、環境や、くじびきや、神様のせいにするのではなく、自分で決めること。
そうやって、小さなことから大きなことまで、1つ1つ選択していくことが、〈英知〉そのものかもしれないよね、なんて思うのでした。
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