芸術作品て どんな風に受け取っても こちらの自由だと思うの
久しぶりにバレエの公演を観に行った。
「久しぶりに」なんて、カッコつけて書いてみたものの、今までだって、そんなに頻繁に行っていた訳でもない。娘が小さい頃バレエ教室に行っていたおかげで、「せっかく習っているのだから、どんなものだか観てみよう」と思って、母娘で何回か行ってみた程度。知っているのも本当にメジャーな作品だけ。今回も、初めてタイトルを聞く演目だった。
バタバタしていて、事前に物語の舞台やあらすじを何も調べないうちに、当日を迎えた。一緒に行った娘に「あらすじ調べた?」と聞いたら、「踊りが観たいから、別にお話は分からなくても大丈夫」と言う。潔いな。今更、慌てて予習しても中途半端だし、よし、あえて事前知識を入れずに観てみよう。
1幕は、事前知識がなさすぎて、設定が全く分からず、誰が主人公なのかもなかなか判断がつかないまま時間が流れた。やっぱり登場人物くらいは調べた方が楽しめたのかなぁ、と思うが、今更仕方がない。
2幕が始まると、少しずつ物語が見えてきた。(後から分かったことだが、1幕は物語の構成が難しかった。)ストーリーが類推できるようになった、というだけではなく、踊る様や振り付けから、感情が伝わってきた。
気づいたら物語世界に引き込まれていた。
哀しくも美しい物語だったな、と感じた。
ところが。
結局、どういうお話だったのかと調べてみると、私が舞台上の人々の動きから想像した設定と人間関係の前提が、全く違っていたことが分かった。
哀しくも美しい、と感じたところは、むしろ哀しくて憐れで、あまり救いのない物語だったことも分かった。
けどなぁ。「幻想に苦しめられる」というところは、私は「本心の自分は、想いのままに自由に振舞い、現実のしがらみから解放されている」というふうに感じられたんだけれどなぁ。
バレエはセリフがある訳ではないので、事前にある程度のストーリーを知っておいた方が楽しめることは、よく分かっている。ただ、今回に関して言えば、私は、事前に知らなかったからこそ、自分なりの感じ方で受け止めることができた。事前情報の答え合わせをするような鑑賞にもならかったし、作り手は哀しい物語というつもりで作ったかもしれないが、私はそれなりに希望を持って観ることができた。
事前知識がある状態だったら、解放、という解釈を通したダンスは観られなかった。勘違いだったからこそ、私だけが観られた演目になった。
作品、というものは、生み出して世に出した時から、作り手の手を離れると、私は思っている。世に出した作品を、誰かが作り手と違う風に解釈したとしても、もう作り手にはコントロールできない。むしろ、鑑賞する人の心の動きが、自らの想定しないところに及ぶことを知るのは、作り手の醍醐味かもしれない。
だから、結局のところ、芸術作品を鑑賞して、それをどんな風に受け取っても、受け取る人の自由だ。
今日、私は、事前学習をしなかったおかげで、新しい物語を鑑賞できたのかもしれないなぁ、なんて思う。