夢中になることに 終わりはない
影絵作家の藤城清治氏が、今年の4月で100歳になる、という記事を見た。
藤城清治氏は、大学のサークルの先輩である。と言っても大先輩すぎて、「あの藤城清治氏が、実は先輩であるらしい」というくらいの、遠い遠い雲の上のような存在なのだが。
私は4年間活動していた児童文化研究会、というサークルの活動が本当に好きで、今でも卒業生の会報誌に原稿を頼まれれば「所属していた商学部出身というよりも、児童文化研究会の出身と言ったほうがいい」と書くくらい愛着が強い。(卒業後の進路も、「商業」よりも「児童文化」の方が親和性が高い気もするし。)
サークル全体では複数の活動があったが、その中でも、人形劇と影絵劇を制作し、小学校や児童館で公演を行う活動に夢中になった。
劇の舞台は、木材の枠を組み上げ、そこに暗幕を張ったもの。高さも横幅も2メートルくらいあり、それなりに本格的なものだったと思う。
暗幕がシワにならないようにピンと張る技術とか、枠をとめるボルトとナットの管理方法とか、あまり将来に役立たないワザを色々身に付けた。
昔話や児童文学を題材に脚本を書き、人形も、背景画も、小道具も、手作りした。その中でも影絵劇の背景として使用する「スライド」は、黒いラシャ紙(たぶんサイズは788×1091)に下絵を描いて、それを細かな線までカッター切り抜き、セロハンや和紙を貼って色を付け、暗くした部屋で撮影をして写真屋さんに出し、ポジのスライドに仕上げる、という手間のかかったものだった。この影絵劇のチームの人たちは、藤城清治氏の作品集をバイブルのように大切にしていた。
私は、制作期間のほとんどは、人形劇の人形に服を着せたり毛皮を被せたりしていたので、影絵劇の制作過程はあまり詳しくしらないのだが、床に広げた大きな黒い紙に這いつくばって、カッターで細かな模様を切り抜いていた仲間たちの背中は、よく覚えている。安直な言葉で言ってしまえば・・・青春だった。
藤城清治氏の作品を観ると、あの頃、家族よりも長い時間一緒にいたサークルの仲間たちとの時間を思い出す。効率とか、評価とか、損得とは無縁の、自分たちが創りたいものに夢中になった時間だった。
銀座の教文館で毎年開かれていた藤城清治展は、規模は大きくないものの、1つ1つの作品とじっくり向き合うことができ、好きだった。
今でも印象に残っているのは、2020年夏の展示。童話「眠れる森の美女」に題材をとった「眠れる森」という大きなサイズの新作は、画面全体が細かな葉で覆われていた。当時96歳の氏が、制作初期の頃からずっと変わらずに葉っぱ1枚1枚を剃刀で切り出し続けていると知り、姿勢を正すような想いになった。
1つのものに打ち込む、ということに、環境や年齢、その他、「できない」理由の諸々は関係ない。
藤城清治氏は、100歳の今も、新作に取り組んでいるそうだ。夢中になることに、終わりはない。
私は、何か大切なものを、取りに行かなくちゃいけない気がしてきた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?