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体育祭ってものは 何の役にも立たないからこそ いいんじゃないか

運動ができない人には苦痛であるとか、練習で先生が怒鳴るのが耐えられないとか、昨今、旗色の良くない「運動会」という行事だが、中学、高校と年齢が上がってくると、少し様相が変わってくる。

学校の教育指導の一環ではなく、生徒たちが運営する自主行事になると、そこに参加度合いの自由度が生まれ、祭り、「体育祭」になるんだと思う。

私は高校生の頃は、体育祭を熱心に運営する熱の中には入っていくことができないタイプだったので、体育祭当日は、どんな風に過ごしていたか記憶がない。たぶん、所在ない1日を過ごしていたんだと思う。でも、苦行だった訳ではない。

そもそも体育祭に全く来ない人もいた。学年ごとに披露するパフォーマンス(大人数で踊るダンス競技)の並び位置が時折変更になったのは、「そもそも参加しない人たち」のいた場所を調整するためだったと思う。でも別に、誰も咎めなかったんじゃないかなぁ。

楽しみたい人が目一杯楽しみ、やりたくない人は参加しない。場を作ることに情熱を持つ人たちが汗をかいて全体を運営し、チームをまとめていくことが好きな人が団長となって自分のチームカラーの旗を振る。強制でも、指導でもない。俄然「祭り」らしくなってくる。

そういう場の持つエネルギーが、好きだ。

先述のように、私自身は場のエネルギーに身を委ねることが充分できず、所在ない気持ちでその場を過ごしていたので、高校生の自分は、その楽しみを充分に享受することはできなかった。

でも、今の高校生や中学生を見ていると、「やれやれ、もっともりあがれー!」と応援したくなる。何がいいって、何の役にも立たないところがいい。

何の役にも立たない、というと語弊があるかもしれないけれど、騎馬戦で勝利しても、リレーで優勝しても、それで何かが得られる訳でもない。(蛇足だが、女子校の騎馬戦と棒倒しの盛り上がり方は、なかなかスゴイ。闘いであった。)得られるとしたら、自らのうちから溢れる高揚感と、勝利の喜びと、仲間からの称賛くらいのものだろう。

その「役に立たないもの」に対して、みんなが本気になる。運営する人も、出場する人も、応援する人も、みんなが本気で、刹那な盛り上がりに目一杯チカラを出し切る。それがいい。

特に中高生くらいの時に熱意を持って作り上げるものって、二次的な目的がない方が断然盛り上がると思うのだ。それ自身を作ることが目的。体育祭と言う場を運営し、盛り上がり、楽しむことが目的!だから尊い。

体育祭に限らないけれど、何の役にも立たないことに夢中になれる、と言う経験は、学生時代の特権のようにも思う。そんな風に盛り上がる何かを持っている人たちのことを、遠くから勝手に応援していたい。

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