合理的配慮の義務化という非合理な話について〜視覚障害者が思うこと〜


本日から、改正される障害者差別解消法の中で語られている「合理的配慮の提供が義務化」というのが、障害当事者の僕からみて「なんか非合理的だなぁ」と思ったので、この記事にまとめてみました。

因みに、僕の障害遍歴はこちら


まず結論から言うと、合理的配慮じゃない配慮ってナニソレ?と思うのです。

わかりやすくするために、非合理的な配慮について考えてみましょう。
この際、まず言葉の定義から調べてみます。

不合理的:道理・理屈にあっていないこと。筋の通らないこと。
配慮:事情をふまえて気遣いのこもった取り計らいをする。

不合理的な配慮とは、筋の通らないように事情をふまえて気遣いのこもった取り計らいをすること

…わかりましたね。合理的じゃない配慮は、もはや配慮ではない、と笑

しかも、配慮の意味の中には ”手落ちのない、または、よい結果になるように、あれこれと心を配ること” という意味もありました。

うん、とても合理的ですね!
「合理的配慮」という日本語が謎なのに、更に義務化しようとしているわけです。

では、義務とはなんでしょうか?

義務:法律上または道徳上、人や団体がしなくてはならない、また、してはならないこと。とあります。

「合理的配慮の義務化」って、いや、そもそも配慮って、やらなきゃいけないことと言うより、やったほうがいいことですよね。

それをわざわざ法律で「しなければならない」とすることに滑稽さが際立ちますよね笑

ここまで言葉の意味で追ってきましたが、僕の経験を踏まえて、更に「合理的配慮の義務化」の滑稽さをこれから語っていきます。

僕が白杖を使って歩いている時に、道路工事に出くわすことがあります。
そこで歩行者を誘導する方がいますが(以下、おっさんとするw)、そのおっさんが「こちらです」と手を繋いで安全に連れて行ってくれることが多いです。

ただ、正直に言うと
①僕はおっさんより女の子がいいな、と思っている。
②心意気はめちゃくちゃ優しいが、手の引き方はぎこちないし、なんなら邪魔な時もある(やかましいわ!)
③ここまで一人で歩いてきているのに全盲みたいな扱いをされることが謎w

という事を心のなかで思ったりはしますが、これを全部配慮してくれ、とか言ったら「勝手にしやがれ!!」って思うでしょ?

そうなんです、禄に対話もせずに配慮をしろなんて、それこそ非合理的だな、と感じますよね(それでも僕は女の子に手を引いて貰いたい)

ただ、ちゃんと補足しますが、そんなおっさんの心意気や、仕事に対する姿勢はリスペクトしているので、そのあたりは合理的配慮でお願いします!(なんやねんw)

と言った具合で、滑稽なことは伝わると思いますが、僕は2022年の3月から障害者手帳を取得した、まだ障害者としてはペーペーです。
ただそんな僕でも、幸いにして配慮された経験の方がよっぽど多く、配慮されなくて困ったという出来事には殆ど遭遇していません。

むしろ殆どの人が、道案内をしてくれたり、特急の号車を聞いただけなのに指定席まで案内してくれたり、必要以上にものを避けて通りやすくしてくれたり。

みんな配慮してくれて有り難いなぁと思うばかりです(いつも感謝です)

僕は、つい最近まで健常者だったので、自分でできることは自分でなんとかする、が基本でしたが、見えづらくなったら”出来ないことはやっぱりできない”よなぁと。
そして、助けてもらえることって有り難いことだし、嬉しいことだなぁと思うわけです。

シンプルに困ったときはお互い様、と思うんです。
僕は視覚障害になって不便なことは増えましたが、一方で不快なことと向き合える度量は増しました。

正直、多数の人が悩んでることを、僕にとっては重たい話題ではなく、しっかり聞き、受け入れることが出来ます。

だから僕は世界に「合理的な配慮」なんて求めてません。

それよりも、あなたが本気と本音で僕に関わってくれることを望みます。
あなたが何を考えているかなんて僕にはわからない。だから僕はわかろうとしたい。そこがスタートライン。配慮したり、何かを求めたりはその後でも遅くないんじゃないかと僕は思います。

誰だって自分のことをわかってほしいし知ってほしいものです。

でも、誰もがあなたのことをわかってる、知ってるわけではありません。

だからこそ、共にわかり合おうとする、共に生きていくしかないといい意味で諦める。

相手も自分も不快になったとしても、人間だからそういうこともあるよねと、清々しく開き直る。敢えて言うなら、これが人間に対する合理的配慮なのではないでしょうか?

僕たちはどこまでいっても一人では生きていけないのです。

それは健常者だろうが障害者だろうが関係ない。

人間そのものを見つめた時に、僕たちは協力してしか生きていないことに気づく。そしたら自ずと配慮する気持ちが湧いてくるんじゃないでしょうか?

合理的配慮の義務化という不合理な話に、情緒的で理性的な僕からの提案をさせていただきました。

でも、本当いらないよなぁ、この法律。
僕には、誰に向けた何目的の法律なのかわからないので、詳しい人がいたら教えてください。

あと、もし良ければ下記の記事も関連すると思うので興味があれば読んでみてください。
無限に理解することはできないわけで

今日も読んでいただきありがとうございます。
もしあなたの感想をいただけるのであれば嬉しい限りです!

それではまた。

p.s. 

じゃあ文句ばっか言って、お前こそ対案だせや!って、国会とか有識者会議とかでみんなしのぎを削って考えた結果なんだよ!って言われそうなので
まず大前提として、「配慮しろや!」っていうことは、「感謝しろ」って言うくらい野暮な話しだなって事を踏まえた上で話しますね。

これは完全当てずっぽうの憶測ですが、配慮をする余裕のない社会、配慮をしてくれと過剰に要求してしまう、心理背景。このミスマッチによる、不快感の最大化が怒りや鬱憤などのカタチによって、社会を動かしたんだと仮定します。

ではそこで必要なことはなんだったかと言うと、対話をする余白の設定と、不快をお互いに許容する心の余裕の創出ではないでしょうか?

綺麗事なのは100も承知ですが、合理的配慮の義務化という、野暮な法律よりかは、よっぽど意義があると僕は考えています。
だから余白が必要なのに、義務化という規制の枷を加えることで更に余裕がなくなり、障害者VS健常者の構図がより顕著になるのではないでしょうか?

人間の素朴な感覚に立ち返れば、「規制されたら影で悪さをする。義務化されたら疲弊する。やりたくないことは義務でやらされたら嫌になってしまう」が、合理的な配慮じゃないですか?

改めて、見たくないのはわかるんですけど、もっと人間の弱くて醜くくて、それでいてここまで生きてきた、そして共に生きてきた性質をしっかり見てみよう、と僕は言いたいだけです。


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