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「承認欲求」がなければみんなnoteなんか書かない。

「承認欲求」がつよい。
ときくと、なんだか煙たがられるような
マイナスな色が強く、
あまりいいイメージを持たれない。

だが、この
承認欲求があるからこそ、
人は人と関わろうとするし
何かを発信したいと思うのだから
本来、この欲求は褒められるべき
ものであるはずなのではと思う。

今、この記事を読んでくれている
出会ったことのないあなた
とたった今こうやって繋がれているのも
わたしの内にある、noteを通して
自分を発信したいという
「承認欲求」があったからこそ
ではないだろうか。

元々、「承認欲求」は人と人が
色付きあって、お互いの価値を
深めあい、生き生きと生きていく
ためには、とても大切な源になっている。

であれば、不快に感じる「承認欲求」
とはどういったものなのかを考えてみた。

自分自身が、自己を受け入れて
ありのままのことや心から届けたいものを
発信している状態。
もしくは自己を受け入れられなくとも
それごとありのままの状態を
「わたしはこれを発信します!」
と嘘偽りのない発信をしているもの。
それらは、人の心に実直に
入ってくるんじゃないかと思う。

その逆で、自分自身が、自己を受け入れ
られないが故に、他人に承認の軸を
丸投げし、その評価で全て自分の価値を
図ろうとしているだけのもの。
や嘘偽りの自分をよく見せるだけの
「自分には価値がありますよね?」
(例えばブランド品を載せるだけ 等)
投げかけるだけのものになってしまうような
「承認欲求」は一方的でパンチも強く
人々に不快や違和感を
与えるのかもしれない。

つまり、その人がちゃんと発信や表現
したい芯の通った思いがあるが故の
承認されたい欲求を相手に届けることは
人の心を動かしたり、心に響くような
きっかけにもなる。

自分自身が発信したいものや
人に伝えたいものが
あるわけではないが、
発信すること自体で自分自身に価値
があるかをどうかをジャッジしてくれ!と
自己がわからなくなっている状態
かつ虚栄心が感じられるものは
人からすると与えられるものがなく、
不快に思うことがある正体なのではないか。

人は誰しもどんな状態であっても
その人にしか発信できない何かが、
必ずあるはずで。
自分が感じることよりも何よりも
「人に承認されたい」
が最優先になるくらいもがいて生きてるなら
(めちゃくちゃ苦しみながらもがんばって生きてる人だから。)
その中身ときちんと向き合いきって、
その苦しみや寂しさの中に人のきもちを
動かすことのできる発信すべき
他のものがある。
その方法を間違えてしまい「わかってほしい」
「わたしすごいでしょ?」のモンスターに
なってしまうだけなんだと思う。

人に自分の「価値」をあずけない。
自分の「価値」を自分でちゃんと
認めてあげ、自分軸をしっかり持って
生きる。
自信をもてなくても、ありのままを
受け入れる強さを持つ。

う〜ん、生きるって大変だな〜。

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