【企画参加】運動会・体育祭の思い出【遅刻失礼】
先日、締め切られたばかりの企画に無理矢理参加しようという、主催者様には大変迷惑な記事です🙇
この企画の主催はwisteria様。
共催は菜戸つみれ様。
締切は1週間以上前だったんですが、企画参加に目がない私なのに、最近noteへのログイン頻度が下がっていたのもあって、昔を懐古するのが大好きなアラフィフの私はあろうことかこの企画を見逃していました😱
でもミエハルは、体育が嫌いじゃ無かったっけ❓
はい、私は高3の1学期末、マット運動の実技試験が恐怖心のあまり授業中に成功出来ず、放課後に1人だけ追試を受ける羽目になったほど、体育が苦手です😖
で・す・が❗
運動会や体育祭は別でした♫
あっ、決して女子の体操服姿が見られるから💖、ではありませんよ💦(←怪しい)
最も昭和時代ですから、女子はブルマという、今では考えられない体操服を着用していたので、好きな女の子の体操服姿を見たら血圧と脈拍が上がったのは当然ですが(笑)
さて最初に運動会の思い出が生まれたのは、小学6年生の時です。
大した思い出ではないんですが、運動会が終わった後、何故か感傷的になって、
『来年は中学生なんだな…この小学校で運動会やるのは最後だったんだな…』
と、イスを教室に運びながら思ったのを、何故か覚えているのです。この「夏が終わり秋になる物悲しさ」というのを12歳で意識するようになってから、運動会、体育祭は毎回思い出に残る行事になりました。
(昭和57年小6の運動会で、6年生の集団演技です。小学校の卒業アルバムより。奥に男子がいて、私も微かに写っているんですが、分かりゃしませんわな 笑)
その時は横浜市民でしたので、そのまま横浜にいたら希望ヶ丘中学校という中学に進学し、もしかしたらその中学校区の隣に住んでいた5歳年下の米倉涼子に偶然出会えていたかもしれないんですが、父が翌春、広島県大竹市へ転勤になると判明したのはその年の暮れでした(^_^;)
そして広島へ引っ越した私の、次の体育祭の思い出は昭和59年、中2の時です。
一つ目は吹奏楽部に途中入部したことで、開会式や閉会式を炎天下で過ごさなくても良くなったことです🎷これは嬉しかったですね~♫
(多分一番目立つと思うんですが、赤ハチマキの男が私です。バリトンサックス吹いてます)
二つ目は、体育祭って色々な係をやらされますよね。招集とか判定とか。
私はクラスでのくじ引きの結果、放送係になってしまいました。
そして体育祭前にあった体育祭放送係の会議で、私は体育祭で一番目立つ、プログラム最後の縦割りクラス対抗リレーの放送担当になったんです。
中学の時は全学年とも4クラスあったので、赤組、青組、白組、黄組に各学年別れまして、1年生から3年生までクラス選抜のスピード走者がリレーをする、体育祭のメインイベントでした。
そこで当時から捻くれていた私は、普通に「ただ今の一位は青組です。四位の赤組の皆さん、頑張って下さい」とかいう当たり前の放送をするのが嫌で、当時ワールドプロレスリングの実況をしていた古館伊知郎アナの喋りをマネして実況してみようと思ったんです。
当時の記録はほぼ皆無なので私がどう喋ったかは私の朧げな記憶を辿るしかないのですが、
『さあ、徐々に各クラスの順位が付いてまいりまして、今のところ1位は赤組、2位は白組となっておりますが、まだまだこの先何が起きるか分からないのがリレーであります。このまま赤組が逃げ切るか、はたまた赤組のかませ犬じゃねぇとばかりに4位の青組が下克上を宣言するか、勝負の行方はゴールテープを切るその瞬間まで分かりません!』
的な喋りをした訳です(実際この通り喋ってはいないと思いますが、とにかく古館節をマネして、ずーっと喋り続けました)。
すると先生方、生徒に大ウケ!(〃艸〃)
すぐその日の終わりに、お前は来年も放送係をやれ、と命ぜられました(;^_^A
それで中3の体育祭も放送係を務め、前年同様に喋ったんですけど、先生方からは、お前、そんなに面白く喋れるなら、アナウンサーを目指してみろよと言われたんですね~🎤📺📻
15歳ですから調子に乗って、よし将来はアナウンサーを目指すぞ✊
と調子に乗ったのですが、アナウンサーになるには早稲田とか慶応とか、首都圏の一流大学を出なくてはなれないと、中学の時だったか高校の時だったか忘れてしまったんですが、ある先生に指摘を受けまして、そんなん無理や!と思って、あっさりアナウンサー志望を諦めてしまったことがあります。
…今考えたら、それほど首都圏の一流大学に固執しなくても、アナウンサーになれたんじゃないか?という気がしてならず、もうちょいアナウンサーを真剣に目指せばよかったのにな、という後悔がないことはないです💦
その次の思い出は高2の体育祭になります。なんと今でも何故か高2の体育祭だけはパンフレットを持っておりまして、こんな感じでした。
このプログラムを見ると、3年女子は午前中殆ど出番がないですね(笑)
一回家に帰ってもバレないんじゃないかと…😅
さてこの時の体育祭の一番の思い出は、20番目のフォークダンスです。
ん?3年全員ってなってるのに、なんで2年のミエハルの思い出になっているんでしょう?
実は私の母校は新設校で、制服が当時の最先端をいく斬新なものだったんです。
男子は近隣の高校は学ランばかりの中、初めてジャケットにネクタイという制服でしたし、女子も近隣はブレザーの高校ばかりの中、初めてセーラー服を採用した高校でした。しかも夏の制服が可愛いんですよ。なので毎年志願倍率が高く、更に女子の比率がどの学年も高かったんです。
私の学年だと、8クラスある中で各クラス5名ずつ女子が多い(計40名女子が多い)んですが、一つ上の学年は各クラス7名ずつ女子が多いという、男子なら黙っててもモテるんじゃねーの?的環境でした。
そのため、フォークダンスとかは普通、女子が多いのなら、女子を男子側に入れて行われるケースが大半だと思うんですけど、我が母校は3年女子にそんな思いはさせないとばかりに、多い女子の人数分を2年生の各クラス男子に派遣要請して来たんですね。
私は2年7組だったんですけど、3年7組のお姉さんとフォークダンスをしたい男子7名の募集が掛けられました。
するといつも何かを募集しても誰も手を上げない我がクラスの男子が、ほぼ全員手を挙げたんじゃないかという状況になり、クジで抽選を行うこととなりました。
すると私、当選してしまいまして、見事にお姉さま達とフォークダンスする権利を得たんです。
ですがクジに敗れたクラスメイトからは私に、
「お前、吹奏楽部で忙しいじゃろうけぇ、いつでも代わってやる」
とか
「体育苦手じゃったよなぁ?無理せんでもええんやで?」
と、陽に陰に暗に権利を寄越せという圧が掛かってきました。
そんなに先輩女子とみんな踊りたいんかい!(笑)
かくして私はクラスメイトの圧を跳ね除けて体育祭当日、3年7組男子の一員として、フォークダンスに参加いたしました。
実際は3年7組と8組、2つのクラスで1つの輪になりましたので、結構な数のお姉さまと踊らせて頂き、中には当然吹奏楽部の先輩もいらっしゃったりして、
「なんでミエハルがおるんよ?」
と驚かれた覚えがあります(笑)
(私は写ってませんが、卒アルの体育祭のページからフォークダンスの部分をスキャンしたものです。あまり多くの生徒は写ってませんが、実は私にとって結構重要な人物が写っています(〃艸〃)ムフフ)
そして高3の体育祭の時は、フォークダンスに逆に後輩男子を迎えて踊ったんですけど、全て終わって片付けている時、夕日がグランドを照らし、もうこんなビッグイベントに参加することはないんだな、と物凄い感傷的になったのを覚えています。
以上、なんとなくのつもりで書いてみたらやっぱり長くなってしまった、運動会・体育祭の思い出でした!
昭和は遠くなりにけり…ですね🌆
執筆の機会を与えて頂いたwisteria様、菜戸つみれ様、ありがとうございましたm(_ _)m