嗚呼、普門館は遠かった~
第一楽章
最初の自己紹介で、趣味として「吹奏楽」というのを書かせて頂いたんですが、私の4大趣味(自称)の中で一番最後に趣味になったのが、「吹奏楽」です。
今年50歳の私が第4の趣味に上げた吹奏楽に関わった、つまり吹奏楽部に入ったのは、今から36年前。
中学2年生、14歳の時です。
途中入部でした(;^ω^)
中学校に上がり、何か部活をやらねばと思っていたのですが、体育が苦手な私には文化部の選択肢しかありえず、では文化部には何があるかとみてみたら、吹奏楽部、美術部、新聞部の3つしかありませんでした。
吹奏楽部・・・楽器は吹けないし、楽譜は読めないし、無理だ。
美術部・・・絵心が全くない、無理だ。
という消去法で、私は新聞部を選んだのですが、ここがなんと男子は私が初めてだという、女子だけの部活でして(・◇・;)
入ったはよいものの、部活内容的にも私がイメージしてたような、学校内のネタを探して毎月ガリ版で学校新聞を作るとかではなく、大半が女子の先輩がずーっとお喋りしてるだけ。私は男一人で話に入れないので、部室だった図書館の本を読んで過ごすという、新聞部なのか読書部なのかよく分かんない状態でした。
しばらくすると男が私一人ということからか、女子の先輩からなんとなく逆セクハラみたいなことをされ始めました。
忘れたい黒歴史なので、大半は忘却の彼方ですが、ある時は机の上に体操服姿の先輩が俯せになって、私に「背中を掻いて~」と言ってきました。
そんなこと出来ないですと断りましたが、なんで体操服姿に?
36年前、つまり昭和ですから、女子の体操服というとブルマーですよ。
勿論出来ませんと断ったんですが、挑発してるのかどうなのか・・・と思った数日後、私が新聞部から逃げ出す決定的場面が訪れました。
ある日の部活に行くと、なんと女子の先輩が、今度は全員が体操服・・・つまりブルマー姿になっていました。
思わず固まっていると、
「新聞部の部活は、油性ペンとかで汚れるから、体操服でやることにした。誰か一人が違う格好だとおかしいから、君もブルマーを穿きなさい」と、目の前に誰のかもわからないブルマーを提示されたんです。
「む、無理です!」と私は一言言うと、逃げ出すように図書室を後にしました。
私の背中に浴びせらせれた嘲笑は、今でも忘れられませんね~。
私は幽霊部員⇒帰宅部になったわけです(;´∀`)
まあ私は、その当時夕方になると再放送されていたアニメとかをこれで見れるようになると、前向きに捉えていたんですが、そんな私を吹奏楽部に引っ張ろうとした方がいました。
第二楽章
私のクラスの担任の先生、Y先生です。
Y先生は音楽の先生でしたので、必然的に吹奏楽部顧問でもあります。
丁度(?)私の代の吹奏楽部員が、これまた女子だけ(苦笑)で、男手がほしいと熱烈に勧誘を受けたんですが、まったく楽器など吹けるはずが無い、ましてや楽譜なんて読めるはずが無いと思っていた私は、勿論(?)NO!と答えてしまいました。
しかしY先生はそれでも根気強く、音楽の楽しさ、楽器を吹くことの楽しさを私に事あるごとに冗談交じりで教えて下さり、その内私の中に、楽器を吹けたら格好良いのかな?なんていう気持ちが芽生え始めました。
折しもその頃、世間を席巻していたのはチェッカーズというアイドルバンドでした。
私と同世代の方ならお分かりかと思いますが、チェッカーズというのは最近のジャニーズ系のアイドルどころじゃない一大ムーブメントを巻き起こしたグループで、中でもそれまでのバンドでは殆ど使っていないか、ムード歌謡や演歌でしか扱われていなかったサックスが前面に出た、初めてのバンドでした。
Y先生は私に対して、
「チェッカーズで吹いてるサックスってあるやろ?君が吹奏楽部に入ったら、アレを吹いてもらいたいと思ってるんだ」
と仰います。
私の心がグラリと揺れました(笑)
そして中学二年生に上がるタイミングで、遂に私はY先生に陥落させられ(笑)、吹奏楽部に途中入部したんです。
…しかし与えられたのはチェッカーズで見掛けたテナーサックスではなく、更に大きくて重たい割には目立たないバリトンサックスでしたが( ̄△ ̄)(苦笑)
最初はやっぱり楽譜が読めないし、思うようにバリトンサックスから音は出ないし、楽譜が読めないから音符の一つ一つにド、レ、ミ、と書いていたら先輩に怒られるし、途中入部という外様みたいな雰囲気にも耐えかねて、3日目にはもう辞めよう!と思って、Y先生にやっぱり辞めます…と言いに、職員室を訪問したんです。
するとY先生、ニコニコしながら、
「まーさか、辞めるなんて言わんよな?( ̄m ̄*)」
と先制パンチ!
私は、いや、あのー、そのー…と何も言えなくなってしまいました。
流石先生、生徒が何を考えてるかなんてお見通しですね(^_^;)
先生は、
「せっかく入ったんだから、せめて1ヶ月頑張ってみようや!今は始めたばかりで大変かもしれんし、同期は女子ばかりで話し相手がおらんのもよく分かっとる。でも3年のNとか、1年の連中と色々話して、男子同盟を作っちゃえよ。そうすればきっと楽しくなるぞ!」
と、激励して下さいました。
今でもこの言葉は忘れられないです…と言っても、一言一句この通りに話して下さったかどうかは怪しいですが(;´▽`A``
この時に私は吹奏楽部を、それでも辞めます!!と言わなくて良かった(正式には、そう言う勇気が無かっただけですがあせる)と、心底思っています(*v.v)。
なんとか先輩や後輩とも男子同盟を結ぶことも出来まして(笑)、毎日の放課後、憂鬱な気持ちになりながら音楽室に向かっていた重たい足取りが、日が経つにつれて少しずつ軽くなっていきました。
Y先生も、なかなか上達しない私に根気強く向き合って下さり、最初にもらった楽譜の曲を初めて最初から最後まで吹けた時には、ミエハル、いつの間にそんなに上手くなったんや!?などとおだてて下さいました(*^^*ゞ
第三楽章
いつしか私はすっかり吹奏楽部に馴染みまして、時は過ぎ、夏のコンクール。
私の中学校は広島県のB部門(今で言う小編成の部かな?)でゴールド金賞ベルを取り、気付いたら私は完全に吹奏楽のトリコになっていました!!
そして秋の文化祭後に3年生が引退された後、後継の部長指名を受けたんですΣ(=°ω°=;ノ)ノ
最初は途中入部した身で部長だなんてとんでもない!と思ったんですが、Y先生が、
「ミエハルを部長にしたいが、途中から入ったのに…なんて思ってるやつがいたら、どうしてミエハルを部長にしたか説明してやるから、後から職員室に来るように」
と仰って下さり、私には
「お前も経験不足なのはよく分かっとるが、とにかくサポートしてやるから部長として頑張ってくれ」
と叱咤激励して下さいました。
これも天命と思って部長にならせてもらい…と言うことは、もはや吹奏楽部を辞めたいな~とかいう側ではなく、もし辞めたいと言う部員がいたら、なだめる側に変わったんだな~と思いました(^0^;)
それから引退までの1年間、悪戦苦闘し苦しみましたが、吹奏楽の魅力にはすっかり引き込まれていたので、逃げ出すことは考えませんでした。
それより、吹奏楽ってこんなに素晴らしいんだよ、みんなもっと練習しようよ!という思いで、頑張らせてもらいました。
私自身が引退する時、文化祭の吹奏楽部のステージで、最後の曲を吹きながら、勝手に目から涙が溢れてしまいまして、いつまでも楽器を吹きたい!吹奏楽やりたい!!と心から思ったのを、今でも覚えています。
私をそんな気持ちにさせてくれたY先生は、足を向けて寝れない、私の人生に欠かすことの出来ない唯一無二の恩師です。
そのまま私は高校でも吹奏楽部に入り、目指せゴールド金賞、目指せ普門館を合言葉に練習しましたが・・・
コンクールの結果はいつも県大会止まり。
普門館どころか、中国地方大会にも進めませんでした。
第四楽章
更に私は高校の吹奏楽部でも部長を務める羽目になりました。
そんな折、打楽器メンバーが一気に退部してしまい、打楽器メンバーが1年生の1人だけになってしまいました。
私は部長として物凄く責任を感じ、それまで吹いていたバリトンサックスから、まったく経験がない打楽器への移籍を顧問の先生に申し出ました。
折しも夏のコンクール直前、私は引退を決めていた3年生の先輩に頼み込んで復帰してもらい、基礎から習いつつ、コンクールでティンパニーを演奏するべく、猛練習に明け暮れました。
その他、中学時代に打楽器で、高校ではホルンに転向していた同期の女子も緊急事態に打楽器へUターンしてくれ、何とかコンクールに挑める陣容が整いました。
結果は、やはり県大会止まりの銀賞(;´・ω・)
でも全力で挑んだので、悔いはありません。
こう回顧すると、中学と高校で運命的に部長職を務める羽目になったり、そのために必要以上に悩んだりと、当時は苦しみましたが、やっぱり私は、吹奏楽部に途中からでも入って、良かったと思っています。
確実に人生が変わりましたし♫
この年になった今でも、学生時代の繋がりは同じクラスだったメンバーより、吹奏楽部だった同期、先輩、後輩との繋がりのほうが圧倒的です。
アンコール
唯一残念だったのは、普門館に行けなかったこと・・・ではなく、一度も告白すらされなかったことです。
女子の方が圧倒的に多いのに!(笑)
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