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おかえり「報恩講(ほうおんこう)」

 昨年よりのコロナ感染症のため、今まで通りの寺の行事が中止になったり、内容を縮小したり、いろいろな変更を余儀なくされて、初めて今までの日常が当たり前の日常では無かったんだと知らされるこの頃です。以前のように沢山の門徒さんに集まって頂くことが、喜びとなるどころか不安要素になってしまっている現状が寂しい限りです。
 6年前、37年間務めた仕事を退職したその年の「報恩講」の案内を掲示板に貼り、その横にコピー用紙で「おかえり」と書いた紙も貼りました。
この「おかえり」は門徒さんに向けた言葉のつもりでした。親鸞聖人の亡くなられた日をご縁として、自らの信心を確かめあう場所皆さんの帰ってくる場所、一緒にお参りさせて頂ける場所はこの「報恩講」ですよ、というつもりで貼ったのですが、なかなか反応を示して貰えなくその年の「報恩講」も終わってしまいました。「報恩講」のお知らせの紙を剥がした時に、「おかえり」だけはそのまま貼って数年がたった時、掲示板の貼るスペースが無かった時に、その「おかえり」の紙も剥がしてしまいました。

 年末に娘が長野から帰ってきた時に、掲示板の「おかえり」が無くなっていることを寂しそうに語っていたと、妻から聞きました。私が門徒さんに向けて書いた言葉でしたが、娘の心に違う意味で、ちゃんと届いてくれていました。自分の帰ってくる場所がここなんだ。私を迎え入れてくれる場所がここなんだと「おかえり」の紙は娘を待っていてくれたのです。その大事な言葉を剥がしてしまったことを凄く後悔しました。
 娘が帰ってから、もっと大きな紙にもっと大きく「おかえり」と書いて掲示板に貼り、裏側には「行ってらっしゃい」と「待ってるよ」の紙も貼りました。次に娘が帰って来た時に掲示板に目をやり、「あるある」というような嬉しそうな顔をしていたことが今でも心に残っています。多分、帰るときには裏の言葉にも眼をとめていてくれたと信じています。
 これからも、寺の掲示板を見て、一人でも多くの人に届けられる言葉を発信していけたらと思っています。
 当たり前のように過ごしてきたコロナ感染症以前の日常に戻り、これまでと同じ様な「報恩講」が勤められる、そして、「おかえり」と言える日が来ることを願っています。

藤波淳(ふじなみ・じゅん)/四日市市・誓海寺住職
※本文章はは2021年11月上旬に配信されたテレフォン法話の内容です

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