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やる意味・やる必要のないことをする豊かさを
大人になると、やることがたくさん増える。
子供の頃は、大人に与えられた宿題を言われたまま、その意味もよくわからずやってみたり、あるいはやらないままで、意味もなく裸足で砂に駆け出すような、そんな生き方がすべてだったように思う。
自分の気持ちの中に誰かから強いられた「やるべきこと」なんて、生まれてきたときを思い返せば、本当はどこにもなかったのに。
「やるべきことごっこ」を子供のうちからすることは、大人になったときに本当にくる義務的やるべきことの練習なのだろう。実際、社会に出れば、それはとても役に立つ方法なのだと知ることになり、すなわち正しいものだったのだと経験則に書き加えられる。
しかし、それは、社会を生き抜く自分を演じる上での方法論であったはずだ。
演じることがいらない瞬間の裸一貼の素の自分には、そんなノウハウを適用しなくても良かったはずだ。
いつから「ごっこ」だったものに、私の人生の遊び方のルールにまで、侵食されてしまっていたのだろう?
この洗脳とも取れる考え方に陥っている人は多く感じる。
生まれたときの泣く行為に意味はあったのか?
子供の頃、裸足で砂に駆け出したときに、それをやる意味を考えたのか?
裸足で駆け出し、汚れることを心配したのは、周囲の人間の立場においてだけではなかったか?
やる必要のないことを、全力でして、楽しんでいたから、そのときの人生は豊かになっていたのではないか。
働いてお金を稼いだり、出さなきゃいけない書類を提出したり、今日の夕食の献立を考えて買い出ししたり、なにかの締切に追われたり……
たくさんのやるべきことに追われる中で、それに対する方法は、社会上・生活上の宿題をこなすことと同じで、分けて攻略方法を考えても良いことなのに、
それをプライベートな生き方のルールにまでごちゃまぜにして、
自分自身の遊び方を、べきだの意味だのを求めて行動するしないを判断するのは、人生というゲームが楽しくなくなることこの上ない。
比喩としてゲームと表現したが
一般的なゲームというもの自体を引き合いに出してみても、
本来ゲームは娯楽なのでやる必要がない。
やる必要がないことを全力でやるから楽しさが生まれている。
それがあるから、生活に豊かさが生まれる。
意味がなくても、手や体を動かしてみる。
意味もないことをする自分を操縦すること自体を楽しんでみる。
やる必要のないと思う瞬間、やる意味がないと思う瞬間に発生する、その思考方法に全力で裏切ってみよう。
そうしたら、人生を豊かにする新たな攻略方法が見つかるかもしれない。
これは、未来の私への言い聞かせでもある。