【小曽根真】小曽根真 Jazz Meets Classic 2020年7月25日 東京文化会館大ホール ピアノ協奏曲「もがみ」指揮:太田弦 管弦楽:新日本フィル交響楽団
「つゆのあとさき」
今年はいまだ梅雨が明けない。コロナ禍で疲れ傷ついた心に雨がひたすら降り注ぐ。梅雨の終わりの雨はしばしば災害をもたらしてきた。今年もまた、既に多くの水害をもたらし、避難所での生活が続く人も多い。なのに、梅雨は終わらない。
「つゆのあとさき」は、永井荷風の小説のタイトルだ。そして、さだまさしの代表曲のタイトルでもある。その言葉がなぜかずっと頭から離れない。僕たちに「つゆ」の「あと」は来るのか。「さき」は何だったのか。そのことばかりを考えている。
新型コロナウイルス感染症がひたひたと近づいてくる中、そう2月26日の夜銀座のヤマハホールで聴いた小曽根真さんのソロコンサートのことが、僕の中ではまだ終わっていない。あれがコロナ自粛になる前に聴いた最後のコンサートだった。となりの座席に別のオーディエンスが座っていた。それまではごく当たり前の光景だったのに。ただ、その夜はやはり緊張感があって、当日行われるはずだったポップスの大きなライブが中止になったとニュースが伝えていた。ヤマハホールはその日がオープン10周年の記念日。スタッフもアーティストもオーディエンスも、なんとかそれをコンサートで祝いと思った。そしてその願いは聞き届けられたのだった。オーディエンスの大きな拍手の中から三鈴さんのあの明るい笑い声が聞こえてきた。いつものことだった。それに応じるように、小曽根さんは"Lullaby for Rabbit”を演奏した。小曽根さんはこの夜、あえてこの曲の由来を語らなかったけれど、この曲は、うさぎのように飛び跳ねる三鈴さんに捧げられた曲である。のちに、三鈴さんが年末から年始にかけて病気で入院加療していたことを三鈴さん自身のポストで知ることになった。ああ、あれは三鈴さんの回復を演奏であったのだなと……その場で確かに特別な"Lullaby for Rabbit”と感じたこと自分の耳を信じたくなった。そう、あれから五ヶ月がたったのだ。
あの日、新橋の駐車場で開場を待っていたところ、はじめて警察官から職務質問を受けた。クルマの隅々まで調べあげた警察官に、なぜ僕に声をかけたのですかと問うと、オリンピックが近く選手村があるこの近辺で警備を強化しているんですと応えた。でもそのオリンピックも延期になってしまった。あの若い警察官は今ごろなにを警備しているのだろうか?
あれから、コンサートやライブが軒並みに中止になり、僕の仕事である予備校での授業もできなくなった。生まれてから60年目に訪れた長い休暇を楽しむことができればよかったのだけれど、今や高齢者に加わった自分自身の肉体を信じることてできない。時間はあるのに仕事が手につかないという、まるで鬱のような状態が続いていた中で、あの小曽根さんと三鈴さんによるWelcome to Our Living Room がはじまった。その53日間のことは、もういろいろなかたちで書いたし、まだ振り返るにはなまなましいところがあって、ここでは触れない。しかし、あの53日間の集中がなければ、僕今これほど希望に満ちて未来を信じることなどできなかったに違いない。しかしそれはかけがえのない経験だった。音楽的にも、人生にとっても……。
幸運にも、6月20日のBlueNoteTokyoでの、再開ライブにも聴取として加わることができた。ライブはすばらしい。まだまだ新型コロナウイルス感染症と共存し、細心の注意を払ってのライブにはなるが、それこそ新しい音楽の様式がはじまることを予感させてくれた。ヤマハホールで聴いたピアノの音色が、その夜バトンタッチされたのである。それも小曽根さんから小曽根さんへと。
7月25日、僕は上野の東京文化会館へと向かった。小曽根さん作曲のピアノコンチェルト「もがみ」を聴くためである。2003年10月4日、僕はこの曲の初演を山形で聴いている。この年国民文化祭が山形で行われることになり、総合プロデューサーの作家井上ひさしさんの委嘱で書かれた曲。その日は、小曽根さんがピアノを演奏しながら指揮も担当したのだった。山形県の象徴的な存在である「最上川」の四季をモチーフに書かれた壮大な叙情詩は、聴衆の心を激しく揺さぶった。おそらく小曽根さんは、最上川に何度も足を運んでモチーフをとらえた上で、この曲をNYの自宅で書いたのだが、曲想があふれてきてどんどん書き進むので、ジュリアードの学生に清書を依頼したと聞いた覚えがある。小曽根さんのクラシックへの傾倒が強まった時期でもあり、ピアノコンチェルトへの瑞々しい思いがつまった曲である。あの初演から17年の月日がたった。井上ひさしさんはもうこの世にいない。そして亡くなった直後に、東日本大震災が起こり、井上さんの愛する東北地方は甚大な被害を受け、その後の原子力災害はいまだ解決していない。
その中で、「もがみ」の再演が決まったと小曽根さんから聞いた。今年の三月末山形で、初演の山形交響楽団でということだった。そして、オーケストレーションをバーンスタイン財団の音楽家に委嘱し改訂版が演奏されるという。僕は初演を聞いた者として、ぜひ山形に足を運びたいと思った。しかし、新型コロナウイルス感染症の流行により、コンサートはクローズドなものになるとアナウンスされ、さらにリハーサルの初日に公演中止が決まってしまったのである。そのリハーサルが中止になったときの様子が映像として残されているが、小曽根さんのみならず、指揮者の太田弦さん、山形交響楽団のメンバーのみなさんにとっては断腸の思いであったことは想像に難くない。だから7月25日26日に行われるMusic Program TOKYOの公演も危ぶまれたのだった。来日することができなくなった小曽根さんの盟友アラン・ギルバートにかわって指揮は太田弦さん、演奏は東京都交響楽団にかわって新日本フィルハーモニー交響楽団、そして周到にソーシャルディスタンスをとった座敷配置の設定をはじめとする運営スタッフ。このコンサートを実現するために、どれほどの努力があったのか計り知れない。どれほどの自己犠牲があったのかわからない。しかし、ともかくコンサートは、予定通り無事行われたのである。指揮者はフェイスシールド、楽団員はマスク、客席は一席ずつあけ、公演中もドアを開け放つ。不自由には違いない、誰もかれも……。しかし、音楽への愛と情熱はみごと状況に勝利したのである。ほんとうに胸を揺さぶるすばらしい演奏だった。
演奏に関する詳細な感想を書く自信がない。あまりにも感動したからだ。ただ、ショスタコーヴィチの交響楽にも匹敵するかと思われるフルオーケストラから届けられる音の圧力・ダイナミックな管弦楽の音場と、小曽根さんの相性はすばらしく、ガース・サンダーランドの与えたオーケストレーションのエスプリは、このピアノコンチェルトを初演以上に輝かせていたことは間違いない。まさに普遍的な現代音楽としての風格を持つ堂々たる楽曲であり、それにみあった演奏だったといえる。
三楽章ともすべてがすばらしい。各楽章複数のカデンツアが準備され、交響楽とのみごとな対話を生み出す手法は、ジャズで培われたインプロビゼーションの妙を堪能させてくれた。今回、合唱のかわりにハモンドオルガンがフィーチャーされた第三楽章フィナーレの、きらびやかでありながら静謐な、希望と祈りのフレーズは、この曲の真骨頂といえる。しかし、そうでありながら、僕の心に衝撃を与えたのは、曲の冒頭の水面を表現したピアノソロが、やがて管弦楽と一体となって悠然とした大河の流れとなる瞬間で、あまりに美しくてただただ涙をこらえるために唇を噛んだ。小曽根さんの書くメロディーは美しい。曲全体はきわめて精緻で構築的だが、僕たちの心をわしづかみにしてゆく。やがて流れてくるこの曲のモチーフ「最上川舟歌」の旋律は、叙事的でありながらきわめて叙情的である。目の前に最上川の風景をイメージしながら、僕は泣いていた。なにが自分を泣かせるのかわからない。音楽の構築性についてなのか、ハーミニーの美しさなのか、一音一音一音の粒だった輝きなのか、メロディーの歌う物語なのか。なにかわからないが、自然に泣かずにおられない音楽の高みを、僕は冒頭から最後まで感じ続けていた。作曲家は、演奏者は、きっともっと感動しているに違いない、そう思ったら、もっと泣けた。マスクをいていてよかったと思う。17年間、小曽根さんの音楽といっしょに生きてきてよかったと心から感じたのだった。
芥川也寸志に「ピアノと管弦楽のための組曲『宿命』」という曲がある。松本清張原作の映画『砂の器』のテーマ曲である。僕は大学生のとき、渋谷の映画館でこの映画を見て、あまりの感動に立ち上がれなくなったことがある。加藤嘉演じるハンセン氏病で村を追われた父と子の道行き。その子が素性を隠して作曲家和賀英良(加藤剛)となり、この曲を弾きぶりするコンサートの中で自ら捨てた父との旅を回想する。音楽と映像が一体となって、泣くに泣けないほど、立つに立てないほど感動したこの『宿命』が、長い間僕にとっては日本人作曲家の最高のコンチェルトだったのだが、「もがみ」はそれを凌駕する。そう、映像がなくても映像がはっきり見えたのだ。
今回はブラボーのかけ声はかけられない。自分の感動を表現出来るのは拍手だけだ。でももうそれだけで十分だった。ここにいられることの幸福と、ほんとうはここに来たかったのに来ることができなかった人への申し訳ないという思いがあいまって、それこそ新しい感動の感覚を、聴衆は共有していたように思う。その一体感さえ愛おしかった。
熱いオベーションを受けて、小曽根さんがマイクを持った。まずこんな厳しい状況の中、こうしてたくさんのオーディエンスが集まってくれたことに、心からの感謝のことばを語った。そして、指揮者の太田弦さん、演奏の新日本フィルハーモニー交響楽団、そして公演のスタッフの方々への感謝を。三月に山形で公演中止が決まったときの複雑な思い、今回も感染者数が増加する中で、いつ公演中止の電話があるか、小曽根さん自身も怯えていたこと。その中で、今回のコンサートの開催ができたことの感謝とこれからの音楽への期待と決意。話す小曽根さんの声は終止激しく震えていたのだが、それはとても美しい光景だった。このコンサートにおいでになれなかった方々も、きっとこの小曽根んの気持ちをご理解いただけるものと思い、ここに記録として書き記すことにした。東京文化会館には、故井上ひさしさんの奥さまもいらしていて、小曽根さんのこの17年間の歩みに惜しみない拍手を贈っておられたことも書き記しておきたい。また、17年前、「もがみ」の初演を聴くためにNYから帰国したベーシスト中村健吾さんともご一緒できたことも。
僕は、もう一度この曲が聴きたくて、26日も八王子オリンパスホールに駆けつけることにした。そしてなんとか「もがみ」だけに間に合った。きっと音楽の神が許してくださったのだろう。二日目もスタンディングオベーションだった。
今年のつゆはまだ終わらない。でも小曽根さんの「もがみ」を聴いてから、ますます「つゆのあとさき」ということばが、頭の中を駆け巡るようになっている。紫のあじさいが見える。それはきっとWelcome to Our Living Roomで見た、小曽根さんちの庭に咲いている花なのではないかと思っている。ものごとには必ず「あとさき」があるものだ。僕たちは希望をもって生きていきたい。音楽を愛しながら……。永井荷風の小説「つゆのあとさき」は軽薄で浮気な男のある意味どうしようもないはなしである。でも一方、さだまさしさんの「つゆのあとさき」はとてもすばらしい歌である。このレポートともいえないレポートを、さださんの歌詞を引用して終わりたい。
「梅雨のあとさきの トパーズ色の風は 遠ざかる 君のあとを かけぬける」(了)