インド人のピアノ #3
どういうわけかわたしは、誰もいなくなったカフェスペースで、乱暴にティーバッグを突っ込んだマグカップを2つ用意し、宿泊施設にピアノがないという当たり前の事実にひどく落胆しているインド人男性の前に座っている。
業務時間はとっくに過ぎていたが、今にも泣き出しそうになっている人を放って帰るわけにもいかず、従業員としてではなく同世代の友達として、終電の時間までは話を聞きましょうということになった。
まだ少し薄いであろう紅茶に口を付け、エリックと名乗る男は少し気持ちを落ち着かせたようだった。
「どうしても日本で弾きたい曲があるんだ」
正直、毎日ピアノを弾くのが習慣だったから出先で弾けないのが辛くてどうしようもない、みたいな単純な理由を想像していた。タバコの禁断症状みたいに。
「小学校の頃、仕事でインドに来ていた日本人の夫婦が同じアパートに住んでたんだ。家族ぐるみで仲良くなって、僕は奥さんのクミコさんにピアノを習ってた」
先週までホステルに泊まっていたマレーシア人の旅人おじさんが、「東南アジアのどの国に行ってもいいけれど、インドには絶対一人で行くな」と30分以上わたしに忠告して帰っていったのが、ふと頭を過ぎる。日本人の駐在員が住むようなアパートに住み、インターナショナルスクールに通い、ピアノが習えるようなインド人は、何パーセントの人間なのだろう。13.5億人の国である。頭では理解していても、おじさんが受付カウンターに寄りかかりながら早口に熱弁していたあの壮絶な体験談と、目の前にいるスーツの少年はどうしても重ならない。
「クミコさんは素晴らしい先生だった。それまで両親に言われて嫌々練習していた僕が、先生に褒められたくて一日何時間もピアノに向かうようになった。クラッシックだけじゃなくて、自分で作った曲も弾かせてくれて、僕はそれが本当に好きだった。音楽で大学に進むことも考えた。ピアノはいつの間にか、僕の一部になってた」
ボールが友達とか、楽器が身体の一部とか。
わたしはまだ、そういうものに出会ったことがない。
「でも、僕が中学1年生になった時、旦那さんのイントでの仕事が終わって、クミコさんは日本に帰ることになった。母は随分前から知っていたようだけど僕が悲しむと思って黙っていて、僕はレッスンが残り2回になったところでクミコさんから本帰国を伝えられた。『来週で最後だから、よかったらこの曲を弾いてみて欲しい』って自分で書いた曲の楽譜を渡されたんだ。僕は悲しいと言うより、怖かった。楽譜を開いたら、なんて言うんだろうな、クミコさんがインドからいなくなるって話に僕が自分から加わって、そしたら全て現実になってしまう気がして、曲は練習しなかった。これが最後だと思いながら行くレッスンなんて耐えられなくて、僕は最後のレッスンにも行かなかった」
わたしはエリックの話を聞きながら、大きな大きなジグゾーパズルをしていた。記憶のジグゾーパズル。過去に散らばった記憶のピースを一つずつ、組み合わせていた。
でもなぜか上手く行かない。やっと見つけたピースにわたしが手を伸ばすと、指先がピースに触れる瞬間に、エリックがひょい、と拾い上げてしまうのだ。
パチン、と音がして、エリックがわたしの記憶を繋げていくのが分かる。
「その次の週、『1週間休憩してたけど、また今日からレッスン再開!』と意気込んでクミコさんの家に行ったら、次の入居者のために清掃中のスタッフがいて、ドアの隙間からガランとした部屋が見えて、僕は後悔でどうしようもなくて泣き崩れた」
「それが日本でどうしても弾きたい曲?」
1ヶ月間、インターンの合間を縫ってクミコさんを探したらしい。10年前に大阪に帰ったという事実と、大阪でもピアノ教室を開くことが夢と話していた記憶だけを辿り、音大や地域のピアノ教室を訪ねて回った。
「できる限りのことはしたんだ。それでも見つからなかった」
クミコさんがよっぽどの有名人でない限り、容易ではないことは想像できる。日本の人口がインドの10分の1以下だとしても、流石に手がかりが少ない。
「ちゃんとお別れを言えなかった人に、もう会う資格はないのかもしれない」
あ、待って。まただ。
それはわたしが嵌めたかったピースなのに。
エリックはずっとテーブルの上で組み合わせた自分の手を見つめながら喋っていた。喉の奥に詰まった言葉を声にするまでに時間がかかる。
「分かるよ」
「分かるの?」
「うん」
まだ眠らないのか、先ほどカフェスペースに降りてきて、わたしたちの2つ隣の机で作業を始めた女性に、話を聞かれたくなかった。
「わたしもちゃんとお別れを言えていない人がたくさんいるから」
中学3年生に上がる前の春、9年間続けていたピアノを辞めた。
バレーボール部で突き指をする度に練習ができなくなるとか、高校受験の塾に通い出したとか、「長く続けてきたのにもっいない」と残念がる大人たちに説明できる理由はいくらでもあったけど、何より紛れもない事実は、ピアノはわたしの一部にならなかったということだった。それなりに指を早く動かせるようになっても、メロディーを奏でる鍵盤にわたしの手は吸い込まれてはいかない。
このコンクールが終わったら辞めさせてください。
と、どうしても先生に言えなかった。
替わりにそう伝えてほしいと、母に頼んだ。
「あなたの心から愛するものはわたしがこれ以上極めたいと思うものではありませんでした」と正直に言えない中学生なりの気遣いは、結局「受験勉強」という真っ当な理由で他人から伝わった瞬間、弱く、小さく、消えていっただろう。
母にどれだけ弱い人間だと軽蔑されようが、コンクールが終わっても自転車で5分ほどの先生の家に挨拶に行くことはできなかった。だって、いつもなら持っていく楽譜がない。次に弾く曲もないのだから。もう通ることのない道を漕ぎ、もう開けることのない家の門を開け、もう見ることのない本棚のある部屋へ入ると、寂しそうな顔をした先生がいる。だめだ、ぜったいだめ、挨拶に入る前からもう試練が多すぎる。
それだけじゃない。お世話になった先生、亡くした親戚、転校した学校の友達、好きだった人。
「食塩水は、加熱をしないと塩と水には戻りません」理科の授業、この単元のテストは100点だった。自分が溶け込んでしまった人から離れる時、わたしの加熱方法は減点対象だ。
人だけじゃない。引っ越す前の部屋にも街にも、卒業する学校にも。それらがいつもと同じ方法でわたしの生活に現れることはもうないんだと思うと、つい目を背けて早足で通り過ぎてしまう。だから、新しい舞台に進んでいるのはずの体に、心だけ、追いついていかないのだ。
パズルのピースを探す手を止める。
「そろそろ行かなきゃ」
「そっか、聞いてくれてありがとう」
「クミコさん、いつか会えるといいね!」はなんだか軽率な気がしたから、「お互い、良い別れができるようになるといいね!」と言っておいた。
。。。
電車の中で、交換した時には連絡することはないだろうと思っていた連絡先に、検索したお店のURLを送信する。ホステルの近くにあるピアノを置いているバーが、最近カフェ営業も始めたそうだと、長期滞在の主たちが話していた。
確か、帰国は夕方の飛行機だと言っていた。お客さんの少ない早い時間帯に行ってお願いすれば、1曲くらい弾かせてくれるだろう。施設の説明をしているわたしに「ピアノはありますか」と聞いてきたあの勇み足でカフェの店員さんに声を掛けるところを想像すると少し不安だが、それでも明日、彼はクミコさんにちゃんとお別れを言えるような、そんな気がしていた。
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