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表現者でありたい。

「表現することが好きなんだよね」

グラスに注がれたリキュールと氷をまんべんなく溶かすような仕草を繰り返し、その男は言った。

カランコロン、と微かに聞こえる。


肩にかかるウェーブスタイルの髪に、ナチュラルに形の整った無精髭。お手入れの行き届いた手先や足元には、生活への意識の高さが表れている。

職業不詳。
無職ということではなく、幾つもの仕事をしている。〇〇をしている人だ、とは一言で説明しづらい働き方。そんな風に表現するのが正しいように思う。


「表現……?」

「そう、表現者」

勿体ぶるように男が繰り返す。こちらの意見を聞きたいのか、続く言葉を選んでいる途中なのか、その発言だけではよくわからなかった。


沈黙を遮るように、男が続ける。

「役者、が仕事ではある。でも、俺はピアノを弾くし歌も歌う。作曲だって自分でするんだよ」

「へえ!」

思わず驚きの声がでた。すごい!と思った。役者でありながら、アーティストである。ひとつの才能では飽き足らず、ふたつみっつと可能性を広げている。好奇心旺盛で多才な人だ。

感嘆の意にこちらがひたっている間、
男は変わらず、湧きでる温泉のごとく話を続けている。


次第に、

惜しみなく自身の才能を披露する様子が、高飛車で傲慢な人のようにも思えてきた。

自らを”表現者”と呼ぶことが、どうも受け付けない。手元でカランコロンと氷を溶かす仕草も重なって、

”ダサい”

と、思ってしまった。




10年ほど前の出来事。

彼氏と別れたばかりの抜け殻状態の私に、心やさしい友人が「活気づけよ!」と紹介してくれた、その男。

ひとまわりほど歳上の、20代の爽やかな名残りと30代だからこそ漂う微かな渋さがうまく調合されたお見事なルックス。当然中身も、スマートさとか包容力とか、同い年の男性にはない魅力があるに違いないわ、と思う存分に期待していた。


だからこそ、その男が言う

「表現者」

というワードが引っかかった。


それは、
”何かひとつに打ち込んでいる人”がカッコいい。

と考える、私の偏った概念がそう思わせたのだろう。

それ以外の在り方は、優柔不断とかフラフラしてるとかそんなネガティブな言葉で片付ける。

白か黒。

グレーはなしよ、と

信じて疑わなかった。




カランコロン

10年越しに蘇る記憶。

グラスに入った氷がぶつかり合い音をつくる。
あの時の光景とすこし似ている。

私はその後、あの男とデートを重ねるわけでもなく、似たような男と付き合うでもなく、自分が理想だと思う”何かひとつに打ち込んでいる人”と結婚をした。

今は夫と、何不自由ない日々を過ごしている。


では、なぜ
このタイミングであの男を思い出したのか。


「あ、私もいろいろやってるからか…」

あれほど、”何かひとつに打ち込んでいる人”が好きだと言ってきたのに、私がいろいろとやってきた10年だった。あれもこれもと欲張った、と言うよりは自然とあれもこれも手を伸ばしていた。という表現の方が近い。

そんな自分を、ダサい、と思ったことは何度もあった。

けれど、嫌だ、とは思わなかった。

かっこ悪いかもしれないけれど、考えて突き進んで、でもやっぱり失敗してを繰り返して。それでも、自分のことは嫌いにならなかった。


その姿が、10年前のあの男と重なった。

なぜあんなにも自信に満ちあふれていたのか、当時の私にはわからなかった。

だが、今はなんとなくわかる。

挑戦をし続けていたから、なのだろう。

誰に言われたわけでもなく、自分の頭で考えて、できることを実行する。そしてまた次のプランを立てていく。この繰り返しが、あのナルシストとも呼べる姿を作り出したのだろう。



「かっこいいですね!」

と、もうあの男に伝えることはない。

であれば、せめて自分に。
ダサくてもかっこ悪くてもいいから、表現することをやめないで、と言い続けよう。




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