いつでもどこでも、エッセイ。
最近2冊の本を読んだ。
どちらも図書館で借りてきた。ひとつは以前から本屋で見かけて気になっていたもの、もうひとつは偶然手にとったもの。
両方とも異文化に関する内容だった。
ひとつめは、今話題にもなっているし、レビューの評価も高いもの。とっつき易そうなタイトルに、可愛らしい表紙のデザイン。本をひらく前から、おもしろそう!と読むのが待ち遠しくなる。
それを図書館で借りられたのだから、るんるん気分で、いくつも借りた中から一番に手に取り、読み進めた。
…
おもしろかった。
とても勉強になった。
知識が増えた気がする。
気づきもたくさん…
でも、心がポッカリとする。
読みながら、少しずつ大きくなった窮屈さ。
なんとか読み終えたい…と、
次第に義務感に変わっていくのを感じた。
気分転換に、もう一冊ひらく。
日本とエジプトの両方にルーツをもつ筆者の話。当事者の視点から宗教にまつわること、文化のあり方、日本人のいいところなどが書かれている。
これだけ書くと、専門書のような、ちょっとマニアックな内容に聞こえる。
だが、読み進めると、すうっと文字を辿れる。筆者のナレーションに耳を傾けているような、心地よさを覚える。
専門用語はほぼ使わずに、やさしく語りかけるような文調。書き手の人柄や気遣いが盛り込まれた、背伸びをしない、目線を合わせてくれる、そんな内容だった。
おかげで、こちらは朝・昼・晩…お布団に入ってからも、時間を選ぶことなく、生活を共にできた。
先に読み進めた本、後に読み始めた本。
どちらも素晴らしい本であることは間違いない。
だが、心に残るものが、まるで違った。
どちらの本がすぐれている、という話ではない。
これは好みや相性によるところは大きい。
それに、読み手が何を求めるか、にもよる。
それでも、圧倒的に
期待していた本ではなく、偶然手に取った本が、心に響いた。
それはなぜか。
「自分の言葉で語っているか」
これだけの違い、と感じた。
先に読み進めた本は、事例をたくさん取り上げてはいるものの、どこかの誰かの言葉やエピソードが多く、いまいち筆者が見えてこなかった。
それを意図して書いているのかもしれない。だが、筆者の言葉に触れたいと思った読み手としては、なんだか少し味気ない気持ちになったのだ。
後に読み始めた本は、筆者の経験をもとに、宗教や文化のよくある事例を取り上げる、というものだった。ニュースでよく聞くあのワードは、現地の人々はこう感じているのか!と臨場感たっぷりに中継をしてくれるので、読み手は疎外感を感じることなく、和気あいあいと文章に馴染めた。
・
文章を書いたり、読んだり。
noteがすっかりお友達になっている。
毎日たくさんの作品があふれ、それぞれが輝きを放っている。
そうだ。
その人の経験や日常、思考を私は知りたいのだ。
そこから共感したり、気づいたり、くすっと笑ってみたり。
その人にしか書けないものを。
「エッセイ」を読みたい。
朝・昼・夜、そして寝る前も。
いつでもどこでも。
大切なことに気づける。
これだから読書はやめられない。
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