結婚は”旅”みたいなものでしょう。
今週末、夫とドライブに出かけた。
行き先は、前々から行きたいねと話していた、日本三大庭園のひとつ、偕楽園(茨城県)。
かつて、兼六園(石川県)、後楽園(岡山県)の立派な庭園を目の前にした、あの胸の高鳴り。きっと3つ目に訪問するここ(偕楽園)も、ど肝を抜かれる経験になるのだろう、と疑わなかった。
迎えた当日。少し肌寒い曇り空。
壮大な公園にたどり着き、目を疑う。
「あれ、何もない??」
別のシーズンはさぞ立派で美しい風景が広がっているのだろうと想像させる、梅の木たちが連なる。綺麗に一列に、というよりは、枝と幹があっちやこっちに、自由気ままに伸びている。
オフシーズンなんだから、とこちらにもバカンスがあるのよ、と主張するかのような確固たる意思をこちらに示しているかのように感じた。
気を取り直して、庭園内をお散歩する。
秋、というよりも、冬をじっと待つ、しっとりした空気。水分を多く含む緑は、こんなにも深かったのだとはっとする。
庭園や大きな公園であれば、東京都内のあちらこちらに点在する。近くに住んでいるであろう人や遊びに足を運ぶ人、観光客も、みんないる。週末はもれなくお祭りのような賑やかさをどこかかしらで味わえる。
それなのに、わざわざ都内から車を走らせてここにくる理由。それは本物に触れたい、そう思う瞬間があるからではないかと思う。
遠出をするとき、ある程度下調べをしてから現地に向かうのが私たち夫婦のスタンダードだった。それがどうだろう。最近はめっきりなくなった。
結婚して数年たち、ある程度免疫がついてきたからだろうか。
知らない土地で生活を築く力、人と関わる力あるいは関わらない力。その経験が、”きっと大丈夫”を作っているように思う。それは”うまくいく”という願掛けのようなものではなく、”うまくいかなくてもいい”と思える余力、ではないかと。
偕楽園とランチとおやつを楽しんで、水戸市内をお散歩する。
近代的な建物に昔ながらのデパート。高台から街が見渡せる、コーヒー屋さんで休憩。すっと入ってくる雑味のないお味。
「あ、美味しい」
水戸に出てきてよかったな、と思う瞬間。
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帰り道。夫が言う。
「今日は連れてきてくれてありがとう」
ん?と思う。だって行きも帰りも運転するのは私ではなく、夫。私には決してハンドルを握らせない。私も望んでないから良いのだけど。
「こちらこそありがとうね」
夫婦になってそれなりの月日が過ぎた。が、夫は変わらず感謝の意をストレートに伝えてくれる。こちらから差し出すことや行いに対してのお礼のときもあれば、全く意図せずに感謝を受け取ることもある。
今回の件に関してもそうだ。
夫は続ける。
「知らない場所に来ると、新しい感覚が身に付くでしょ」
「知らないことの発見ってこと?」
「いや、地理的にね」
ああ、なるほど、と思った。夫は思い出を場所で記憶していることが多い。だから、こうして知らない土地を訪れて、時間を過ごして、頭の中で地図を広げていく。それが夫にとって旅の醍醐味なんだとか。
私は違う。旅行に行こう、と言っても、ひとりであれば目的地に着くまでに気が変わったり、道中でうっかり満足してしまってお家にUターンすることもある。自らの行動にげんなりもするけれど、私にとっての旅の醍醐味はきっと、過程にある。
だから、結果を追い求める夫をみて、理解ができないな、と思うことが今までにあった。分かち合えないな、と思うことだってあった。
だが、こうして旅を通して、知らない夫の一面に気づく。
それは、たとえ理解はできなくとも、異なる哲学に触れることであって、相手を尊重する瞬間でもある。
これからも、ふたり「旅」を重ねる。
どこか知らない場所に出かけたり、馴染みのある場所に何度も訪れてみたり。一喜一憂しながら。
日常と非日常を繰り返して、夫婦を深めていく。
結婚とは、旅みたいなものなのかな
と、車に揺られながらぼんやり考えていた。
・・・・・・・
(見出し写真はお借りしました。🎋)
偕楽園メモ📝
”コントラストを楽しむ”
この発想がお見事で、まんまとど肝を抜かれました。
珈琲次郎さんの企画に参加させていただきました^^☕️
大きなテーマで、ずっと考えてましたが、答えは出ず。旅行先でぼんやり浮かんできたことを記事にしました。
ちなみに夫は、「結婚は人生の通過点」と言ってました。そうよね、通過点よね。じゃあ、私にとっての通過点ってなんだろうなと考えたとき、「旅」に辿りつきました。あってもなくてもいい、でもあったらいいこと。そんなところでしょうか。