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一歩進んで、三歩下がるみたいに。
あいたたた。背中のコリとクビの疲れが気になって、身体がリフレッシュを求めだした。
そう言えば、次のヨガはいつだったかしらと、二つ折りにしてしまっておいた予定表をひらく。
えええ?
何度見ても、1月の予定が見当たらない。なんなら通っていたクラスは、12月末が最終レッスンだったらしい。
昨年の秋ごろから、近くのスポーツセンターで開催される夜間のヨガ教室に通っていた。教室と言っても、2週間に一度、あるいは月に3回ほどの、ちょっとした息抜きていどのもの。
それまではひとりYouTube などを観ながら、身体をほぐしていたので、たまには教室に身をおいて臨場感のあるヨガを嗜む、そんな風に生活に取り入れられたら良いな、と思っていた。
通ってみると、家でするヨガとはまるで違った。すぐそこから聞こえる先生の声を頼りに、眼を閉じて呼吸をととのえ、ゆっくりゆっくりと身体を床に預けていく。
教室に来たからこそ味わえる、身体を労われる時間。1時間ほど自分に集中して、終わるころには、どこか置いてけぼりだった心が身体と一緒になる。それは、自分を取り戻せるかのような、贅沢なひとときだった。
それなのに、だ。
いつの日からか、通わなくなってしまった。
いや、すっかり忘れていた、という方が正しい。
ポジティブに言うと、心と身体がヨガを必要としていないくらい満たされていた、のかもしれない。
ただ、それとは別に心当たりのある感情がある。
それは、
めんどくさい
だ。
あんなにも、清々しい体験をしたにも関わらず、わずらわしいなどという気持ちが、メキメキと湧いて出てきたことを忘れてはいけない。
いつも決まった時間に同じ場所で催されるヨガ。
ルーティン化するにはもってこいなのだが、習慣になるほどの頻度でなかったこと、それに予定される日時にあわせて自分をその教室に通わせること、が私にはできなかった。
その日その時その場所で、というのがあまりにも難しいと感じる。
大好きな友人との約束ですら、数ヶ月あるいは数週間前に予定を決めてしまうと、当日になってそのスケジュールに自分を合わせていくことが苦痛で仕方ないというのに。
だからと言って、約束をやぶるとか仮病をつかうとかそんなことはしない。いったん感情を無にして、空っぽの自分を約束の場所に向かわせる。そうすれば、だんだんと気持ちが追いついてくる。
そうやって何とかやってきた。
だが、自分ごととなるとまったく話が変わってくる。
都合よく、「忘れる」という術を発揮するのだ。
おそらくこれは、めんどくさいとか寒いとか乗り気じゃないとか、そう言っただらしない種の理由によるもので、必要に駆られなければ記憶の彼方へと飛んでいってしまう。
「またか……」
とちょっと落ち込む。
やってみたいと思って試したのに、「忘れてた」ことは今回がはじめてではない。
レッスン代がもったいないのはもちろん、先生へお礼の言葉を伝えられなかったし、最後まで通って「教室に来てよかった!」と言ってみたかった。
でも、どこかで
ちょっと安心している自分もいたりする。
決まった日に決まった時間に決まったことをすること。
“苦手なものは、やっぱり苦手なのだ”
そう自己を再認識できたとき、
通ってみてよかった、と思えた。
ちょっと試して「あ、駄目だ」となったり、「やっぱり止めよう」と思うことはこれからもたくさんあるのだろう。
それでも、一歩進んで三歩下がるみたいに、進むことをやめなければ、ほんのちょっとずつでも前に進んでいくから。
さて、リビングに転がりテレビをつけて、
数ヶ月前の自分にもどってひとりヨガをしよう。
マリコ先生、ふつつか者ですがまたよろしくお願いします。