クセェ文章、スケベ心?そりゃアカンわ。そりゃあね。

書き手としての「スケベ心」は当たり前じゃないの?という作家志望の方のnoteを見かけたんですよ。

お酔いになった状態で書かれたnoteなので、ノリと勢いであって本心じゃないかもしれません。
(言うて私も今クリスマスのスパークリングワイン飲みながら書いとるけど)

そのnoteで引用されてる呟き漫画の、英語の先生シビれた!

同じく作家志望の方のnoteで引用されてる、こちらのnoteもシビれます。

↑のnoteの先生のこの↓台詞!

「こんな授業を取っているんだから、きっとみなさんは文章に多少なりとも自信のある人なんでしょう。だけど、そういう人に限ってスケベ心を出すんです」

「いいですか。誰かの言葉を借りたような、手垢のついた表現を使うのはやめなさい。もったいぶった、奇をてらった表現もです。そうやって書くのはあなたたちの心に『うまい文章を書いてやろう』というスケベ心があるからです。そんなつまらない文章を書くんじゃありません」

創作においてスケベ心を出してはならないという話

で、課題の後にその先生が昔の教え子の書いた、スケべ心のないよくできた文章を読ませてくれたと続くわけですが。

(略)ごくシンプルな文体で、洒落た言い回しも、個性的な比喩表現もない。

 ただ、魚市場で水揚げされた大量の稚魚が透き通って美しかったこと。砂糖醤油で煮ると透明な稚魚が飴色に染まっていくこと。そんなことが、本当に目に浮かぶように書かれていた。私はイカナゴの稚魚を見たことがないし、くぎ煮にしたこともないが、まるで自分の思い出のように頭に浮かんだ。十数年経った今でもこうして覚えているくらいだ。

創作においてスケベ心を出してはならないという話

うん、これこれ。
「十数年経った今でもこうして覚えている」、
これが余計なキョロ充ゴコロで散漫にならず【自分の感懐や脳内イメージに忠実に書かれた文章だからできる、「人の心に刺さる」「爪痕を残す」文章の威力】なわけです。
「十数年経った今でもこうして覚えている」のは、書き手の「脳内イメージ」が読み手のnoteの主さんにそのまま「脳内イメージ」として焼き付いたからですね。

これに対して、最初のスケベ心擁護の作家志望の方の反論はこう。

うまい文章を書きたい。人を感動させたい。共感してもらいたい。それは創作をしている以上、当たり前の感情な気もします。
だって、創作の文章rtr ってそういうものじゃないですか?

うーん、人目意識しながら書く時点で「ゾーンに入れない、入ったこともない」って自己紹介になっちゃうことにおそらくこの方は気づいていない。

そうじゃない文章は、例えば、電化製品の取り扱い説明書みたいな、胆摘で(摘出手術じゃない笑)端的でわかりやすくて、無駄がない。それは、説明文です。

↑のイカナゴのくぎ煮の「脳内イメージ」に忠実にくっきり書かれた文章を、説明文と言ってるに等しいんだけど………。
だとしたらやはりこの作家志望の方はまだゾーンに入った文章とそれ以外の見分けがついてないことになる。

そうじゃなくて、エッセイや小説の場合、言葉と言葉が合わさって文章となり、そこから情緒がうまれるのが、創作ですよね。情緒がある、詩心がある。なぜだか心が揺さぶられる。ときに泣いてしまう。主人公と一緒になって怒ってしまう。ドキドキしてしまう。そんな風に情緒があるものが、創作の文章だと多む 思うんです。

この部分を見る限り自己陶酔と自己表現の見分けもついていない。
自己愛(自己陶酔)と作品としてのエネルギー(自己表現)はゼロサムの関係であり、反比例の関係であるので、全く違うものなんだけど。

そこで、上記記事にもどりますが、じゃあ、どこからがクセえんですかね。
どこからがスケベ心なの?

前項の通り、自己陶酔と自己表現の見分けがつくようになれば自ずと理解できることなんだよね…。
違いは「脳内イメージ」に忠実に書いているかどうか。
自己陶酔が挟まると「脳内イメージ」は雲散霧消してしまうので、「脳内イメージ」に忠実に書けたことがないと自白してるのと一緒なんだよなあ…。

だって、書きながら、ここのインパクトいいぞ、とか、ここで読者を引きこむぞ!とか、考えながら書きますよね。

こんなこと考えながら書かれたものは私は読まないし、仮にどうしても読まなきゃならないとしたら評価はしないなあ。
少なくともゾーンに入って書ける人は「他人からこう見られたい」とかいうキョロ充はしないし。
それ以上に気になるのは、どこにインパクトを感じるかは読者に委ねられるものではないかということ。
なのに「ここで読者を引きこむぞ!」などと書き手がそれをコントロールしようと思うのは、ある種の傲慢じゃないのかなあ。
「ここのインパクトいいぞ、とか、ここで読者を引きこむぞ!」というのは作者の自慰的思考であり、読者にそれを感じさせたら一瞬で萎えさせ、読む気力を折ることになる。
作者の自己陶酔する姿を見せられたら、読者としてはドン引きするんだけどなあ…。

自分の経験則と他の方の知見から言えば「他人からこう見られたい」というキョロ充仕草は作品の質を高めるどころか余計な夾雑物、ノイズにしかならないんだよね。

ボク言いましたよね。

「自らの脳内イメージに気づかず他人の作品の先っちょだけ切り貼りするのは底辺雑魚モブ創作者」

「脳内イメージはブラックボックスに隠れがちなので他人の芝生見たら吹っ飛んでっちゃいますよ」
「キョロ充仕草では『ゾーンに入れない』から他人の想定内程度の意外性のないつまんない出来にしかならないですよ」

「自己陶酔は感動とは無関係であるばかりか感動を減殺する」
「自己表現=自己陶酔と思ってる人も多い」
「自己愛(自己陶酔)と作品としてのエネルギーはゼロサムの関係」
「ただ、「描き手の自己陶酔への没入感」と、「作品としてのエネルギー」の見分けがつかない人もかなり多い」
「物理的に描かれた以上の情報という点においては観察眼がない人には自己愛も作品としてのエネルギーも同じに見えるかもしれない」
「情報の「質の見分け」ができていないという意味ではその人のその時点の能力の限界を現している」
「ある程度描ける観察眼の優れた人は作品にこびりついた作者の自意識のノイズはわかる」
「そういうの(自己陶酔を)見せられると作品そのもの見るとか以前に共感性羞恥という殺虫剤を浴びせられた蝿みたくブビビビと苦しむことになるので、私は裸足でソッコー逃げ出す」

「元ネタのある他人の不幸を計算ずくで規則的に並べる感動作は苦手」
「恣意的、意図的に「感動させてやる」というウエメセ作家は苦手」

「なんか(自家薬籠中になってない外部のものを)見ながら描くとテンプレ通りにしかならんからニュアンスもクオリアも乗らないので視線の滞空時間が短くなる」

「テンプレ表情で自分の心を動かさずに済むことより、恥ずかしいけれども自分の感情を動かすことを怠りたくない」

「描き手の「脳内イメージ」を育てるのもまた好みや経験値、アンテナの感度であると思う。
何を好んで何を摂取して何を選択して何を感じて溜め込んで来たか、という個人の感情の来歴が「脳内イメージ」と言えるのかもしれない」

「「何を好んで何を摂取して何を選択して何を感じて溜め込んで来たか、という個人の感情の来歴」が「脳内イメージ」の正体」

クセェ文章、スケベ心の分水嶺って、要は「脳内イメージ」に集中できるか、自己陶酔で悦に入って「脳内イメージ」をどっか吹っ飛ばしちゃうかの違いなんだけどなあ。
やっぱり「脳内イメージ」自覚してる人って少ないのかもなあ。
作家志望で一応投稿先の文芸雑誌で講評されたレベルの人でもこういう認識、というのは自分的にはかなり驚きではあるね…。
講評文も参考に見てみたけど、やはりというかなんというか、テンプレ褒め言葉のよくある抽象的な励まし文だったよね…うん…。
まあ本人は喜んでるからいいのかもしれないけどね…。

続きも書きました


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