「自分の子がかわいい」はルッキズムとは別軸という話〜Buddhismと個性とAI生成画論争を添えて
なんだかオサレレストランのメニュー名みたいなタイトルと思うなど。
容姿コンプとルッキズム
先日こんな漫画が流れてきた。
たくさんの共感を得たであろうことが納得できる漫画である。
一方このようなポストが先日バズって(炎上して?)た。
「自分や他人の子供をかわいいっていう人いるけど不細工だったりしてかわいいと思えない、ルッキズムと否定されるのはわかってるけど」(意訳)
以前ただ流し見しただけなので元ポストは貼れないが、大体こんな感じ。
冒頭の漫画は女性のルッキズムに対するコンプをよく描けているなーと感心する。
そしてその大元が母性より女であることを優先する母親もどきの認知の歪みが原因であることをわかりやすく描いている。
容姿にコンプのある女性なら「母」より「女」優先系毒親部分はともかくとして「あるあるあるあ…」なのではと思う。
ほんでね。
まあよーある容姿コンプの方じゃなくて
「(一般的に整ってるとは言えなくても)かわいい」はルッキズム以外のところで発生してるという話をしたい。
「かわいい」と神経伝達物質
端的に言って
ルッキズムのかわいいはドーパミン(報酬系、興奮、刺激、情熱)という神経伝達物質によるもの
仮に整ってなくてもかわいいはオキシトシン(親密さ、絆、信頼感、所属感)によるもの
である。
ドーパミンの特徴は
報酬系であること
一定の刺激を受け続けたらその刺激に慣れて報酬と脳が感じなくなる
なので、どんどん刺激の要求水準が上がることである。
そしてドーパミンによる快感は賞味期限が短い。
ワッと盛り上がってスンッと萎える。
ほら、少し前に日本中大騒ぎだった某超大物日本人メジャーリーガーの元通訳の違法賭博とかね。
完全に本人の脳内のドーパミンによる報酬系の刺激がバグっていったので額面も併せてバグっていったわけ。
快感も長続きしないので3年弱で1万9,000回だっけ?
あれです。
「うちの子が世界中で一番かわいい」理由
閑話休題。
ペットを飼ってる人なら100%あるあるだと思うけど、「うちの子が世界中で一番かわいい」。
たとえ柄が非対照でも、ちょっとファニーフェイスでも、うちの子ならかわいいわけである。
ちょびひげ模様の猫ちゃんとかファニーだけど実家でもたびたび飼っていたし事実かわいい(今も実家に一匹いる)
そういう場合の「かわいい」はオキシトシンだと書いた。
親密さ、絆、信頼感、所属感から来るものだと。
実際ペットを飼うと「それな!」となる。
ペットってまあ、頼れる人は飼い主しかいないから親子みたいな密な関係になる。
飼い主的には「頼られてる、信頼されてる、心を開いてくれてるのがわかる」ってのはとてもとてもとても嬉しいものである。
で、じゃあたとえ造形がいわゆる「美的にかわいい」わけではなくてもなんでかわいいと感じるか?という仮説を考えた。
というか過去考えたことがあり、その当時一定の結論を出している。
実際一般的な「美的にかわいい」造形とは異なる面白い顔のペットを飼っていたことがある。
その経験から言えるのは
「面白い造形の子が自分の意思を持って、一生懸命何か考えてるのがわかったりさまざまな要求をしたりどこにでもひっついてきたり予想外の行動をしたりヤンチャしたり時には癇癪を起こしたり完全に人間を奴隷だと思ってるけど全面的に(最期の最期まで)信用してくれるのはとてもかわいい」
ということである。
どんな面白い顔してたって、どんなに奥に隠れてこっそり遊んでても、名前呼んだら必ず甘え声で鳴きながら現れて飛んできてくれたらそりゃかわいいよ。
それからもうひとつ言えることがある。
ペットも飼ったことがない人が遠目で見たら同種の動物なんて見分けがつかないかもしれない。
だけど毎日毎日接してて、特に赤ちゃんからずっとそばにいて見守ってきた子なら癖や特徴や性格をずっと成長と共に見てきてるわけで。
ということは、どんな細かい仕草も表情も性格も体型も知り尽くしてるわけで。
これを一言で表現すると「馴染んでいる」になるだろうか。
その馴染んだ子が他の子と混じってもすぐに「うちの子」と見分けがつく。
馴染んだ子は顔の造作じゃなくてその子の生きて動いてるすべての動作、声音、生き生きした感情など生命力の証し、躍動、存在感を丸ごと見分けているのである。
また、「馴染んでる」ということはその子に「頼られてる、信頼されてる、心を開いてくれてるのがわかる」ことである。
だから「馴染んでる」≒オキシトシンの分泌である。
愛別離苦という人生最大の苦しみ
逆にちょっと余り想像したくない方面に想像力を膨らませてみる。
馴染んだ子が事故などでもう二度と動かなく、目を覚まさなくなってしまったらどうなるだろう。
当然深い悲嘆を覚える。
身を切られるように辛い。
なぜか?
それは馴染んできた(≒自分と深く繋がってた)者が失われたからだ。
あのいつも目にしてた他の子とは違う手(前肢)や爪の形、パタパタとした独特の歩き方、ちょいと小首を傾げてこちらを見つめる顔、そして全幅の信頼…。
全幅の信頼を漲らせて駆けてくるあの温かい生き物が永遠に失われたとしたら。
顔の造作とか関係ないやろ?
どうしたって。
てなるわけです。
ペットに例えて書いたけど、もちろん人間の子供なら尚のことである。
ペットが下だというわけではない。
私もペットロスで何年も苦しんだ経験のある身である。
ただ、人間の子は将来がある。
ペットはずっと自分の手元で可愛がって暮らせるけど、人間の子は大きくなったら自立して社会に出て世界を広げていく。
その先を更に子孫に繋いでいくかもしれないし、血縁でなくても良き仲間と何かを成し遂げるかもしれない。
罷り間違って零落してしまう可能性もないではないけれど、良きも悪しきもすべて可能性である。
可能性の生き物という点で、ペットを人間の子供より優先させることは現実的にはできない。
年始の飛行機事故でペットの機内持ち込みの是非の論争が吹き上がった。
ペットは飼い主にとってはかけがえがない命であることは間違いない。
しかし、人間は社会にとってかけがえのない命である(もちろん例外はまったく嫌になるほどあるが、あくまで基本ラインとして)
なお、仏教の教えに「四苦八苦」という言葉がある。
人生には4つの逃れられない基本的な苦しみ(生活、老苦、病苦、死苦)と応用編みたいな4つの苦しみ(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)があるという。
その中でも最大の苦しみは「愛別離苦」、読んで字の如く愛する者と生別・死別する苦しみを指す。
これは何も仏教だけが言ってるわけではなく、「プロスペクト理論」の「損失回避バイアス」という名前で普通に現代の心理的パターンとして認識されている。
簡単に言うと「得る喜びより失う苦痛の方が大きい」ということである。
つまりこれらは現代社会でも割と普遍的な法則として認知されているのだった。
AI生成画論争と神経伝達物質とボキャブラリープアー
脱線したが要するに、成長を見守ってきた「馴染みのある」命に対する慈しみから生まれるかわいさは、美的なかわいさとは完全に別軸である。
ということである。
冒頭に書いたように美的なかわいさは「短時間で慣れて快感報酬の薄れる」依存性のホルモン、ドーパミンによる。
一方「馴染みのある、自分と深く繋がった絆」から生まれるオキシトシンは、たとえ美的に優れていなかろうとかわいいと感じるホルモンである。
同じく「かわいい」という単語ひとつにもまったく違うニュアンスが含まれていることを忘却しているかのような論争は、テキストベースのネット社会ならではと言えるだろう。
これまたややしばらく前のバズだが、こんなポストがあった。
私は文章グルメかつ分析ゴリマッチョなのでもちろん「意味さえ通じりゃ語彙プアーでええやん」という立場には全面的に反対である。
それでは美しい日本語の文章を堪能することもできなくなるわけで、超絶文章グルメとしては絶対に許さーん!なのである。
というのは余談で、上記ポストのような考え方はある種の危険性を孕んでいると個人的には思う。
このnoteで延々書いてきたドーパミンとオキシトシンの違いから来る「かわいさ」の混同も上記ポストのようなボキャブラリープアーさ加減から来るものと考えるからである。
この混同やある種の論争はおえかき界隈のAI論争にも通じる。
AI生成画のプロンプトは既存イラストのさまざまな表現を例えば「深い瞳」という単語ひとつに収斂させてしまう。
これは手描きイラスト絵師のような多彩な表現を貧弱化させかねないとも言える。
生成者が生成一本槍だと、ボキャプアーでもAIが多彩なガチャで生成する。
これは生成者の能力や感性を退化、摩耗させてゆくことに繋がりかねない。
使わない能力や身体機能は退化していくものである。
退化しないように自覚的に自己鍛錬を続けられる生成師が果たしてどのくらいいるものだろうか。
多彩な表現、ボキャブラリーはその人の感性ぴったりに表出できれば他人と被る可能性は限りなく低くなって行く。
ということは逆に個々人の表現の個性が発揮されるには、ボキャプアーも個性のないプロンプトへの収斂化も逆効果となる。
とは言えないだろうか。
また、絵師にとって自分の絵は子供と同じという絵師の発言もある。
基本的に私も同意である。
自分の手で胎生した絵柄から生まれた絵は「馴染んで」いて、自分が育ててきた実感のあるものである。
そういう意味では自分の絵柄による絵はオキシトシンの産物とも言える。
逆に貪欲に他者の絵柄を取り込むことを「自分の絵」と称する絵師(AI生成師も含む)の絵は、狩猟による興奮を伴ったドーパミンの産物と言えるのではないか。
であるから、他人が部分的に自分の絵を断りなく取り込んでいるのを見たら(法的には責任を問えないものの)、オキシトシン絵師は「馴染んだ絵のパーツ」がバラバラに組み込まれていることを感じ取るものである。
それを理解できない絵師は自分で絵柄を育てていない、狩猟型のドーパミン絵師であろうことは想像に難くない。
また、「自分の絵柄の学習を許容しない絵師には特権意識がある」との声も他分野から聞こえてくることがある。
例えば「翻訳者にとってAIによるディープ翻訳は絵師と同じく自らの努力の結晶を学習されたものだが誰も文句は言ってない。絵師だけが自分の作品を学習させたくないと言い張るのはやはり特権意識が強すぎるのでは」などである。
この辺もやはり翻訳者という立場と「オキシトシンにより自分の絵柄を育てた」絵師との見解の相違ではないかと思う。
想像でしかないが翻訳にオキシトシンはあんまり放出されないのではと。
ただしこれはあくまで木っ端絵師の貧困な想像でしかないので翻訳者周辺の識者の声があれば聞いてみたいところではある。
というわけであくまで木っ端絵師の想像にすぎないが、現在の画像生成AIを巡る分断は「絵を描く(生成する)」という単語の下にドーパミンとオキシトシンというホルモン由来の絵の違いを混同していることにより更に激化しているのではないか。
そういう仮説を私は持っている。
ドーパミンとオキシトシンを見分けられるセンサーと知的経験的バッファの多様性とその分析≒個性
「かわいい」にもドーパミンとオキシトシンの違いがある。
わかりやすいひとつの単語の下に、実は一人一人それぞれに、その折々にどれだけの微細な感受性の違いがあるのか。
それらを考え、その実態を知ることは容易くはないことかも知れない。
実際に個々人の感性によりその内実は多種多様、千差万別である。
例えば同じ「オキシトシン的かわいい」でも、
飼っているペットが
美味しそうに餌を食べる時、
ケージから出して欲しくて癇癪を起こした時、
悪戯心を起こした時、
当てが外れてキョトンとしてる時、
飼い主の帰宅に飛びついて喜ぶ時、
…それぞれみんな「かわいい」が、その時その時で飼い主が感じる感慨はまったく同じではないだろう。
たった一匹のペットにすら上であげた以上の様々な「かわいい」を毎日毎秒、飼い主は感じていることだろう。
その感慨を一言では伝えきれなくて、飼い主は収まり切らず溢れた「かわいい」をSNSの画像や映像で伝えようと試みる。
これもひとつの創作である。
それが画像、映像などのビジュアルであればフォロワーは堪能して終わらせることもできはする。
しかしそれらの感慨を自分の言葉や創作手段で表現したい人々もいるだろう。
飼い主の感じた多様な「かわいい」の発信がたくさんのフォロワーの中でさまざまな表現の種子になることもあるだろう。
その種子はすぐに芽吹くわけではない、芽吹かないで終わるかもしれない、でもいつか芽吹くこともあるかもしれない。
そうやって日々表現したい人々の中にさまざまな「かわいい」やその他の感慨が蓄積されていく。
しかしその蓄積から表現に繋げるためには「かわいい」の単語に収まり切らずに溢れた感慨を見分けるセンサーが必要になる。
しかし見分けるセンサーだけでは表現に結びつかない。
その微細な違いの感覚を分析し表現手法に結びつける必要がある。
すると「表現手法に関わるバックグラウンド的知識=知的経験的バッファ」が必要になる。
その知識をわざわざ周囲に開陳するかどうかは別として、バックグラウンド的知識、知慧のストックを持ち、分析分類蓄積してないと「具象化に結びつかない」からだ。
それはつまり知的経験的バッファの存在が、表現者の個性の確立のバックアップになるということでもある。
雑多な知識や経験則の分類は、本人の中の個性、感性によってそれぞれ色づけられるからだ。
あなたの「かわいい」の分析結果と私の分析結果は同じにはならない。
本人の経験や感情の履歴はそれぞれ違い、何を重視するか、何にエモを覚えるかという価値観も各々違うからである。
そういう意味で私は先に引用したポストのような「意味が通じるだけの簡単な日本語のススメ」に賛成する気は起きない。
それは人間的文化の豊かさの放棄と感じるからだ。
人間個々人の個性の放棄とも言える。
その怠惰な提案をしている本人も「自分の個性を認めてほしいからSNSを使用している」のではないか。
「俺は俺だ、他人と違うんだ、俺は尖って目立ちたい、他人に認められたい」からわざわざアカウントを作って極端なポストしているのでは。と疑問に思う。
であればそれは実に皮肉をまさに体現したポストなのではないか。
自分が自分という他者と違う個性でいたいのに、自分の個性を殺す方向のボキャプアーを勧めるというのは。
自分が自分として尖りたいなら、知識、知慧のストック=知的経験的バッファの蓄積を怠ることは悪手ではないか。
それを怠るから実は双方の中での意味合いの違う、しかし一見シンプルな単語ひとつを向こうに挟んで対立する羽目になるのではないか。
他人に自説の正しさ(自分の気持ち)をわかってほしいのであれば、時に蓄積された知的経験的バッファによって正確なニュアンスを伝える必要も時にあるのではないか。
そうであればやはりテキスト上のシンプルな単語ひとつで喧々諤々することは妥当ではないだろう。
その単語に内包された意味や定義が食い違っていれば、議論が成り立つはずがないからだ。
反面そのたったひとつのシンプルな言葉に内包される多義性は豊かな文化の内包でもある。
日本語の「行間を読む」文化の醍醐味とでもいうか。
それは私の文章読みとしての最大の楽しみのひとつでもある。
だから一概にシンプルな表現を否定しているわけではないことをお断りしておく。
ただ必要に応じて語彙の圧縮と解凍の双方を適切に行う必要性があると思う。
それにはやはり普段から表に出さずとも知的経験的バッファの蓄積、分析、分類が必要だと思う。
そういう知慧がSNSの論争回避のひとつの手掛かりになる可能性を考えている。
言葉とは諸刃の剣である。
その裏に誰のどのような思いがどれだけ内包されているのか、その解釈の行き違いに悩むことは多い。
しかし時には言外の気持ちまでも汲んでもらえて歓喜することもある。
その表裏一体の美点、欠点を押さえた上で言葉を適切に使っていければと個人的には思う。
というわけで、ドーパミンとオキシトシンの「かわいい」は、全然、違うんです。