自分のオリキャラがかわいいのは真理だろう、けど…
身に覚えありすぎるようなちょっと違うような、絵師さんの心の叫び
…のようなnoteが流れてきた。
かいつまんで書くと以下のような内容である(表現はあえて変えてある)
SNSフォロワーがとても少ない
いいねがすごく少ない
有名になりたいとかバズりたいとか高望みしてるわけではない、がたくさんでなくてもいいので自分の絵を第三者にちゃんと見てほしい
しかしそれを声高に周囲に押し付けたくない(承認古事記みたいに思われたくない)
のでタグも使わずトレンドにも乗ることもしない
描くこと自体は楽しい
自分の絵に納得できるようになった
自分の手で描いた絵を盲信してるわけではないが自分のオリキャラを他人に認めてほしい
二次創作でのフォロワー集めは他人様の作品を自分のために利用してるようでなんか違うと感じる
自分自身が表に出たいのではなく自分のオリキャラを世間に見てもらいたい
以上のように大それた望みを持ってるわけでもないのにそれすら叶わない
描くことは楽しいけど誰にも反応されないと自分のアイデンティティが揺らぐ
自分の絵を好きだし我ながらイケてるはずなのにまったく他人に評価されないのがつらい
下手だと思われたくないのでものすごく時間をかけて描いている
こんなに努力して頑張ってるのに誰にも見てもらえない
時間をかけて描いた絵に反応かないのがつらい
…特に前半は「あれ、自分かな?」と思った。
で後半は「ああ、ちょっと私とはスタンスが違うかも」となった。
クレクレ古事記になりたくないのでタグもトレンドも無視とか、絵は外に出したいけど自分自身は表に出たくないとかは非常にシンパシー感じるんだけど。
でも私はアイデンティティは揺らいでない、と思う。たぶんだけど。
ただ、絵のストーカーだけは私のアイデンティティを揺るがそうとする存在なので一毫ほども許すつもりはない。
↓ちなみに自分のお絵描きの心理的防衛ライン(アイデンティティ防衛ライン)を堅固にした方法を書いたnote
あと、絵を描くことに時間をかけること、またはかけたこと、そしてその努力を認められないのがつらい、という箇所は私と明らかに違う。
この方がどんな絵を描くのか、ハンドルネームもnote用に変えててSNSのリンクも貼ってないのでわからないけど。
ただ、とりあえずひとつ目として指摘したいのは、絵の上達には克服しなければならない矛盾があるということ。
その矛盾とは主観と客観の両立である。
ちなみに切り口はちょっと違うけど類似の内容を書いたことがある。
以下↓
上記のnoteではポジティブ思考とネガティブ思考を切り口にして書いた。
今回流れてきたnoteの件で言えば自己のモチベーション(主観)と客観の矛盾が問題だと思う。
描き手視点としてはその両方を両立させねば基本的には第三者に通用しないと思うのだ。
上記のnoteでこう書いた。
件のnoteの人は、「どうしてもこれは譲れない!」部分が「オリキャラ」なんだと思う。
「どうしてもこれは譲れない!」があるのは大変いいことである。
それがなければ描き続けることは不可能だからである。
けど、「自分のオリキャラがかわいい」は絵の巧拙を問わずどんな絵師でも当然なので、この一点をもって客観的に他の絵師と差別化することは不可能てあることに気づいていないように見えるのだ。
その心理的メカニズムはオキシトシンという神経伝達物質によるものであり、人間という生き物である限り当然である。
この辺りは過去noteても書いた。
↓以下
描き手のオリキャラかわいい、は「自分がオリキャラと触れ合い続け馴染んだ」ことによって生じたオキシトシンの作用である。
対する閲覧者はその「触れ合い続けて馴染み、そのオリキャラに対しオキシトシンを分泌する」機会がそれまで生じてない。
なので、描き手と同等レベルでかわいさを感じるのは土台不可能なのである。
故に当然ながら本人が「自分の絵を好きだし我ながらイケてるはず」といくら念じていようとその感覚は閲覧者とは一致しない。
逆に少々身贔屓を差し引いて見るのか現実的対応であると思う。
もうひとつ指摘したいのは、「時間をかけて描くこと」「努力すること」自体を高付加価値として捉えているらしいことである。
いや、画力向上のための途中経過としては努力は大事ですよもちろん。
けど、閲覧者にとっては「時間かけていようといなかろうと描かれた結果がすべて」だし、「努力すればするほど絵の価値が上がるわけではなく、これも結果がすべて」である。
描き手としてはもちろん結果だけかすべてと言われたら納得しがたいものもあるが、反面事実でもある。
そして私は絵を描くことに努力や時間をかけることは「途中経過としては」大事だが、実際にはその努力で培った実力で絵の情報を圧縮して短時間で出力できる絵の方が結果的に価値が高まると感じる。
たとえばたった一本のシンプルな線に立体感や体感、重量感や速度感などの情報が多重に込められている絵だと「やるなあ…」と感心する。
見る側としてもそのシンプルな線に圧縮して込められた多数の情報を矯めつ眇めつ引っ張り出して確認して堪能するのは楽しい。
結果その絵への視線の対空時間が長くなる。
そしてこれができると他の箇所にも労力を回せるので絵のクオリティや密度をさらに上げることができる。
逆にたとえどれだけ心を込めようと時間をかけようと努力を重ねようと、平板な線画に平板な色塗りをいくら丁寧にしていようと描かれた以上の情報が込められてない絵は穴が開くほど眺めようという気も起きないし、無理に眺めてもそれ以上新たな情報は出てこないので、視線の対空時間は絶対的に短くなってしまう。
これは過去noteでも取り上げたことのあるテーマである。
↓以下
それから視覚情報の圧縮≒基礎画力の蓄積を「画力のメタ化」と私は呼んでいるのだけど、そのメリットについて書いた古いnoteがこちら↓
つまりここで指摘しているのは「単純な労力や努力や時間の傾注がイコール高付加価値、『ではない』」ということである。
労力や努力や時間を傾注した結果、基礎画力が上がる
→描く速度や手間を効率化できる
→結果余力で背景や他のオプションなどにも労力を割くことができて絵のクオリティが上がる
…という良いループに入ることができる、という話である。
とは言っても、件のnoterさんが既にめちゃくちゃ画力のメタ化ができてる達人で更なる高みを目指してる、という可能性も捨てきれない…可能性もなくはない。
が、画力のメタ化の効力を知ってたら、一概に「時間をかけて描くこと」「努力すること」自体を高付加価値として捉える発言にはならないと思う。
メタ化によって脳内イメージ通りに描けるまでの速度が上がると、本当に捗るし気持ちいいので、かけた時間や労力努力がすべて、という発想にはならないと思うのよ。おそらく。
たぶんこの方が言いたいのは、「チャラっと流行り物を小器用にすばやく描けるってだけで自分の努力と労力の結晶の自分のオリキャラより人気がある」ことが納得できないってことなのではなかろうか。
でもたぶんだけど、小器用にすばやく描ける人は画力のメタ化ができてるからすばやく描けるって面もあると思う。
たとえば人物だけ描いて、下手に見えないように根詰めてへとへとになって力尽きちゃう程度の画力だと、自由にいろんな表情やポージングも描けるか少々疑わしい。
生き生きしたキャラを描くのには生きた表情やポージングは欠かせない。
絵の中の「生きた」クオリアは描くのに時間をかければかけるほど枯れていく。
時間をかけすぎた絵のイメージ喚起力は反比例的に下がっていく。
私も経験あるから言うんだけど、「丁寧さや、いかに時間をかけたか、如何に下手に見えないように取り繕ったか、しか美点のない絵」って、『もっさい』出来になるのよ。
描くのに時間かけると脳内にあった鮮烈なイメージも干からびちゃうから、できるだけフレッシュなうちに、つまり短時間のうちに描き切る方が『もっさくなくなる』。
『もっさくなくなる』と、人の目に入りやすくなる。
『もっさくなくなる』とは、シャープさの獲得なので(描線がシャープという意味ではない)
なので、この方は自分かわいさと自分のオリキャラかわいさで「第三者の客体からご自身の絵を見たらどう思われるのか」という現実的視点が欠けているのだと思う。
それと、画力に対する見識がまだ浅いのだと思う。
とりあえず2次元で形がうまく取れればそれがゴールみたいな。
実は神絵師は2次元で形がうまく取れてるだけじゃなく、さらに3次元的または心理的、感情的などの多重の情報をその2次元情報の上に圧縮して乗せていることに気づいてないとか。
100人程度のいいねを望んでる程度なんだからかわいいもんでしょ、というのは謙虚とは別のある種の自我肥大の気配を感じる。
いいねの数はそのまま絵の価値とイコールではないからだ。
また、いいねの数=絵の価値と刷り込まれて苦しんでる絵師をたくさん見てきているけど、その考え方のままでは病むしかない。
それを最大限に拗らせると京アニ事件にまで発展してしまう。
「承認欲求」という単語を繰り返して「自分でもわかってる」と自己に言い聞かせるのは、傍目で見てると非常に危うい。
この方はたぶん、「描いてる最中は楽しい」と言ってるけど、本当の意味では描きながら「飛んだ」ことがないのだと思う。
「飛んだ」とは自我を手放すことである。
所謂「ゾーンに入る」状態のことである。
あくまで想像だが、この方の場合の「描いてて楽しい」は「私のかわいいオリキャラがこんなに素敵に描けて楽しい」という、あくまで自我をモリモリと意識した、言い換えると自己愛や自己陶酔に浸った状態のことを指すのではないかと想像している。
しかし、「飛んだ」絵と「時間をかけた絵」なら前者の方が断然人目を引くことになる。
し、「飛べる」ようになると他人の目ばかり気にすることが馬鹿らしくなってくるのだ。
こればかりは「飛んだ」ことがないと理解できないことであるし、特に自己愛と相性の悪い境地でもある。
従って自己愛や自己陶酔をメインエンジンにして描く人から見たらこれらは腹立たしい意見であることは間違いない。
しかしながら、自分が他人の絵を見る時に「あの絵師さんは自己陶酔してて素敵💓」とか思わんでしょ?
むしろ「絵じゃなくてマスかいてら…」と萎えることになる。
私のnoteでたびたび書いてるけど、自己愛、自己陶酔と感動(作品としてのエネルギー)はゼロサムの関係である。
ズバリのnoteも書いてたわ↓
たぶん、この方は画力的には平均点なんだと思う。
でもそこで自我から手を離して「飛ぶ」ことができたら、飛躍できるんじゃないのかなあ、と想像している。
自我に固着しがちな人は他人の客観的な視点を、他人からの視線ばかり気になる人は自分の中の譲れない何かを考えてみるのがいいと思うんだよね、何度も書いてる気がするけど。
そんなわけで、入り口あたりは非常にシンパシーを感じたけど、だんだん読み進むうちに「あれ?」となったnoterさんのnoteを読んでいろいろ感じた徒然などを書いてみたのだった。
へばね。