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モネが30作描いたルーアン大聖堂

印象派の絵画って、どんなイメージですか?

風景、お花、お庭、ふくよかな女性、、、、、どれもその通りですが、印象派が描いていたものは、外の自然光の加減と、水に映る反映、そして、19世紀の時代の変化。特に産業革命後の街の風景などを、忠実にキャンパスに描く事を追求していました。

モネは絵画に対するポリシーが、生涯に渡って変化に富む画家の一人です。晩年、睡蓮をテーマにして約250点描いたのですが、そこにたどり着くまでに、彼の絵はどんどん変化していきました。

連作画ルーアン大聖堂30作を描き始めた1892年。この年は、彼にとってまさに第2の人生の始まりでした。そう、2番目の奥さん、アリスと再婚した年でもありました。彼が52歳の時です。人生も折り返し地点。モネは86歳まで生きた(当時ではご長寿さん)だったので、まさに油の乗った時期だったのです。

それまでにも、モネは連作画をたくさん描いていますね。セーヌ河、ポプラ並木、藁積みなどなど、同じモチーフを日によって異なる天候、時間によって異なる光、空気や雰囲気までまさに一瞬一瞬を逃すまいと、キャンパスに描いていた、モネの連作画は、臨場感溢れる絵だと私は感じます。

なぜモネはルーアンの大聖堂を選んで、連作画にしようと思ったのか?

というのは、この連作画を描くのにモネはたいへんな苦労をしたようです。大金も使ったし、人にも迷惑がられていたし。。。。。そこまでして、なぜモチーフに選んだのか?不思議な疑問でした。あまり知られていない事ですが、モネは何度もルーアンに来て、ルーアンを描いていました。なぜか?

それは、ルーアンに魅了された訳ではなく、ついでだったようなのです。ルーアンに魅了されてルーアンを描き続けた画家は、ピサロでした。ピサロとルーアンについては、またの機会にお話しようと思います。という事で、そうなんです、モネはついでに寄っていたルーアンで、大聖堂を描こうと思ったようです。

ルーアンから北西に5kmほど行った所に、デビルレルーアンという街があります。そこに、兄であるレオンモネが住んでいました。このお兄さん商才があったようで、ルーアンでの商いが成功し、郊外にお屋敷を建てて住んでいたのです。モネは兄の家をよく訪ねていて、その際、ルーアンによっていたということなのです。わざわざ大聖堂を描こうと思って、ルーアンに来ていた訳ではなかったのです。それを裏付ける様に、妻アリスへの手紙には、「大聖堂を描こうなんて最初は思いつきもしなかった。こんな古いなんでもない建物なんてどうして描きたいと思うだろうか。」等々、文句をたらたら書き綴っていたようです。モネは結構、愚痴の多い人だったようですよ。

それでも一度決めて描き出したら、どんな状況になっても最後まで貫く一途な人、それがモネです。どんな苦労かはここルーアンに来て、モネがどこで描いていたかを知れば、なーるほどとお分かりになるかもしれませんね。

そこまで、モネを本気にさせた大聖堂。睡蓮には及びもつきませんが、彼が連作画に夢中になった、1890年−95年にかけての作品の中では一番大きなプロジェクトだったのではと思う、30作に及ぶ大作です。

しかしモネはこの30作を描きあげた1893年の時点では、公表もしませんでした。30作全部ジヴェルニーの自宅アトリエに持って帰り、翌年まで最後の一筆をと描き続け、それでも納得いかず、ルーアン大聖堂の絵には、彼のサインをいれてないものがいくつかあったようです。モネは完璧主義者でもあったんですね。

彼の絵画へのあくなき追求と、情熱が垣間見られるこの連作画ルーアン大聖堂。作品を鑑賞するとともに、モネが実際に描いていた場所で、同じ目線で大聖堂を見た感動をもう一度。そんな気持ちを彷佛させる場所。それがルーアンです。

#一度は行きたいあの場所 #フランス #モネ #ノルマンディ#印象派

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