『君の名前で僕を呼んで』好きという感情に理由なんていらない【映画コラム】
舞台は美しい北イタリア。17歳のエリオとエリオの父の仕事の手伝いでやってきた24歳のオリヴァー。ふたりがいるその場所は、まるで、用意された着せかえ本から、エリオとオリヴァーをひとつずつ綺麗に切りとって天才画家がかきあげた発色の良い風景画のキャンバスに、そーっと置いたみたい。
だって、空は嘘みたいな青色で、ヴィーナスが優しく吹きかける息みたいに、風が心地よく流れている。神々しい木々には、絵の具で塗りつぶしたみたいなオレンジ色のアプリコット。いい塩梅に古びたおっきな屋敷。人のぬくもりが集うことで、ちっとも気にならない座り心地の悪そうなテラスの椅子。
映画を回想していると、そんなふうに次から次へと、細かく描写できる。それくらいに心地の良いひと夏がたんたんと映し出されていく。
あまりに名作で「えっいまごろ、、?」というヒソヒソ声に耳が痒くなりそうだが。エリオのパパが言いそうな台詞で返すとしたら「人々がすでに持ってしまった気持ちを幸運なことに君はいま初めて手にしたんだ。それって羨ましいことだ」うん。そう、もう見ちゃった人には味わえない2度と訪れない初めて見たあとの感情なのよ。(なんでもない当たり前のことをあたかも凄いことみたく言う)
冗談は、さておき。この作品は、まさにそんな冗談みたいなくだりのような話なのだ。わたしは、この「なんでもない」要素に惹かれ、心を奪われた。それはどういうことなのか。
エリオとオリヴァーは、基本的に屋敷とテラスと庭と川と街にしかいない。登場する人物も基本的には、このふたりと、エリオの両親とお手伝いさんと同級生の女の子で、まわっている。
場所も登場人物も、薄いと言われてしまえば、薄い。そして、ストーリーには特段、感情的になるような大きな振り幅の曲線もない。それでも、エリオとオリヴァーが織りなす日々は、ふたりにとってだけではなく、観る者にとっても「何ひとつ忘れない」ひと夏なのだ。
小説(アンドレ・アシマンによる同名小説)が原作なだけあって、小説的なのかもしれない。文章は、ひとつひとつの丁寧な描写で、読む人の心を躍らせる。この作品も、映画でありながら、背景、台詞、立ち振る舞いのそれぞれが繊細に映し出されている。
皆さんもご存知であろうエリオ演じるティモシーシャラメ。この役は彼のためにとっておいた役と言っても過言ではない。むしろ、彼をモデルに小説を書きましたか?とも言いたい。(原作は早速、買ったので読んで違う見解だった場合には、コラムを書くかも)
アーミーハーマー演じる成熟して、知性溢れる24歳のオリヴァーも魅力的なんだけど、わたしはエリオが好きだ。とくに、エリオの目つきは心を吸い込む力を持っている。それは整った顔が理由じゃない。ティモシーシャラメが出ている作品は割と見た。そして、この魅力的な目つきは、エリオにしか見いだせない。
オリヴァーを追う目は、成長過程の17歳のエリオが持つ最大限の魅力を宿している。
ところで、「なぜふたりが惹かれあったか理解できない」というレビューをいくつか目にした。なるほど、その点が腑に落ちないという人もいるのか。わたしは、その部分を「人が本当に人に惹かれるとき、理由なんて必要ない」ことが、なんて素晴らしいんだろうと感服した。そして、エリオの父の話し同様、そういう人と巡り会えることは、幸運なことで、誰もが経験できるわけではないことに共感した。
基本的にふたりの純粋なラブストーリーがメインではあるが、エリオと両親との関係にも魅力がギュッと詰まっている。筆者が好きなシーンは、父親がアプリコットの語源を話すシーン。ネタバレになるので、詳細は割愛するが、まだ見ていないという人がいれば、そのシーンを見てきっと納得してくれるはずだ。そして、停電で母親が16世紀のフランス小説を翻訳しながら読み聞かせるシーン。「話すべきか、命をたつか」すでに見たという人も、印象に残っているシーンだろうと思う。
今回、見た直後に温かい感情が冷めないうちに執筆をはじめたので、なにひとつ削りたくない気持ちで、文字数がやや大きくなってしまった。本当は、もっと書きたいこともあるが、ここはこの映画のひと夏のように名残惜しい気持ちを残したまま、綺麗に終わりたいと思う。
(文:菜梨 みどり)