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M023. 【哲学・本】存在と時間 その4
「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【21回目】です。
(前回はこちら↓)
前回に引き続き、ハイデガーの『存在と時間』を読んでいます。今回は、光文社の『存在と時間』の5巻を読みました。副読本も読んでいます。
① ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 5』(2018年 光文社)
② 竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)
③ 池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)
現存在は【気遣い】
これまでで現存在というものがどういう存在なのか、さまざまな側面から特徴付けられてきました。
現存在の平均的な日常性について、これまでの四章で解明されてきた存在様態をまとめて表現すると、「頽落しつつ開示され、被投的に投企する世界内存在であり、この世界内存在は、<世界>のもとでのみずからの存在と他者との共同存在において、自らにもっとも固有な存在可能そのものに関わっている存在である」と表現することができる。
被投と投企という見方が加わったことで、現存在の過去・未来が示唆され、本のタイトル『存在と時間』の意味が予感されてきたのでした。
つまりそれは、人間はつねに、「自分がどういう存在であるか(あったか)」(=被投性)から、「自分はどういう存在でありうるか」(=企投)へとめがけつつ生きている、ということを意味する。この分析によって、人間存在が「時間的」存在であることが、この上なく明瞭になっている。
その上でハイデガーは、現存在の根本は【気遣い】であると言い出します。このあたり本当に分かりづらくて、前回の【理解】や【解釈】もそうでしたが、自然な一般語を術語として採用されると苦労します…。しかも、これまで現存在のことを「実存」や「世界内存在」、あるいは「開示性」など、色々と特徴づけた後なので、結局のところ何なんだ、と思ってしまいます…。
私見では、ここで改めて現存在を気遣いとして解釈し直すことの効用は、「気遣い」という、動詞の名詞形で現存在を捉えなおせることにあると思います。これまでも示唆されていたことなのですが、ハイデガーの考えている現象学的な存在論は、「モノ」ではなく「コト」を議論の出発点としているのでしょう。おそらく現代的な素朴な感覚からすると、人間なりの知性を持った「モノ」がまずあり、その「モノ」が他の「モノ」に何らか働きかける、という図式の方が馴染みやすいかもしれないです。しかし現象学的な考え方はそうではなくて、「働きかけ」たる「コト」(≒気遣い)がまずあって、そこから「モノ」が示唆されるのでしょう。だから、これまで議論してきた「現存在」というのも、そういう「モノ」が居るというのではなくて、そういう「コト」が起きている、ということについて考えてきたのです。こういった議論の基礎を明確にするには、動作で現存在を表す方が、的を射ている気がします。
こうして「気遣い(Sorge)」は、人間存在における根源事実だとされる。人間は「情状性」、「了解」、「語り」という契機をもつことによって、自分とまわりの世界の「存在」をつねに開示し、さらに自分の存在の新たな「存在可能」をめがけつつ、また自分の存在可能を問題にしながら存在する。そのような人間存在のあり方の本質が、「気遣い」という術語で示されるのである。
気遣いとして現存在を捉え直した上で、ハイデガーはこれまで構築してきた新たな存在論に基づいて、哲学史上の主題であり続ける【実在】や【真理】をどのように扱うか考察していきます。
存在論で実在を考える
実在をどのように考えたらよいかということは、以前の巻での現象学についてのトピックや、世界内存在の考え方についての部分でも触れてきていました。
存在と実在の同一視
これまでずっとハイデガーの問題意識は、存在の意味を問うことにあり、現存在についての分析はそのための準備でした。ところで日常的には、存在は実在と同一視されやすいように思います。実在という概念には、“真に現実に“存在しているという含みがあります。「ユニコーンは伝説の中に存在する」と言えても、「ユニコーンは伝説の中に実在する」とは言い難いように思えます。しかし一方で、「犯罪の証拠が存在するかどうか」と言ったときには、わざわざ注釈がなくても証拠が“真に現実に”存在しているかどうかが問題になっていると分かります。誤解を恐れず言えば、どちらかというと「存在」の方が一般的で包括的な概念であり、より狭義な物言いとして「実在」という概念があるようです。ハイデガーが議論したいことは、より一般的な概念である「存在」の方なのですが、存在についての哲学史を振り返ると、ほとんど実在の方に固執されているように見えるのです。
デカルト以来の近代哲学の伝統では、あるものの存在が問われる場合には、そのものが現実に存在するのかどうかという問いが何よりも重視されてきた。
ハイデガーの基本的な論調は、実在は存在のうちの一つの様態に過ぎないのであって、実在の概念を基本として存在論を展開することはできない、というものです。(基本とすべきは、【気遣い】であることがついさっき宣言されました)
そのために現存在の分析論だけでなく、存在一般の意味への問いを詳細に分析する営みにおいても、存在の意味を実在性だけから考えるという一面的な方向づけをやめなければならない。そのためにも、実在性は多くの存在様式のうちの一つであることを証明する必要があるだけでなく、存在論的には現存在、世界、手元存在性とともに、特定の基礎づけ連関のうちにあることを証明する必要がある。この証明を行うためには、実在性の問題を、すなわちその条件と限界について、原理的に解明する必要がある。
実在性は、世界内部的な存在者のさまざまな存在様態のうちで優位を占めるものではないし、この実在性という存在様式は、世界と現存在のようなものを存在論的に適切に性格づけるものでもないのである。
ではデカルト以来の実在への固執がどのようなものか確認してみます。まずデカルトの議論は懐疑論であり、疑いから始まる議論であることが特徴的ですよね。
このようにデカルトの懐疑においては事物が事物として存在するかどうかという実在性の問題こそがすべての疑問の背後にあり、これらの疑問を解消するための唯一の鍵は、思考する「わたし」の存在だった。たとえ「わたし」が悪霊にたぶらかされて、その他の事物の実在を信じこまされているだけだとしても、そのようにたぶらかされる「わたし」の実在だけは疑うことができないということだった。この疑いのなさがすべての懐疑を打ち払い、真理を確信するための根拠とされていたのである。
つまり真に実在しているものと、実在しているように見えてそうではないかもしれないものが、デカルトには感じられていて、騙されないように気をつけながら、真の実在について議論したいという狙いがあったようです。真に実在しているものの特徴としては、【実体性】という概念が考えられることになります。
まず実体性という概念は、デカルト以来の近代哲学の中心的な概念である。すでに第一部で考察されてきたように、デカルトは、実体という概念を「存在するために他のいかなるものをも必要とすることなく存在しているもの」と定義した。そして本来の意味で、存在することに他のいかなるものも必要としないのは神だけであることを認めながらも、精神と物体だけは、「存在するためには、ただ神の協力のみを必要とすればよい事物である」と考えて、これらも実体とみなした。
空想上のものや幻覚中のものは、それらを感じている「わたし」に依拠しなければ存在しえないので、実体とは言えない。そういったものは、ひとたび「わたし」が正気に戻れば、雲散霧消してしまうものであり、つまり実在していない。しかし「わたし」については、他の何者かに頼ることなく(神にだけは頼ってよい)存在していることが確信できたので、確かに実体である、と考えられたようです。しかし、ただ「わたし」だけが確実であることが分かったところで、それが何になるのでしょうか? 結局のところ私たちがさまざまな事物と関わりながら生きている日常について言及できる理論になってくれないと、空虚な定義が宙に浮かんでいるだけになってしまいます。だから、実在についての問題は、この確かな「わたし」(精神)がいかに周囲の実体らしきもの(物体)と関わり合うことができるのか、ということについての妥当な説明を追求する議論に発展していきます。
この問題構成は明らかに「モノ」(神学の背景を汲めば、「作られたモノ」)から始まる議論です。実体である「わたし」というモノと、実体と言い切っていいかわからないが周囲のモノとがまずあって、その間の関わりについて考えたりします。モノを最初に保証するので、モノどうしの関わりの部分が取り組むべき問題として残っているのです(「自我の超越と世界の認識の問題系」)。
他方、ハイデガーの現象学的存在論は、コト(気遣い、現存在)を最初に保証するので、関わり合うコトがまずあって、そこからモノが導かれます。だから、どのような気遣いの対象であるかに基づいて、手元存在者だったり眼前存在者だったりの異なる存在者が登場したのでした。この考え方から見れば、モノから始まる議論というのは、あたかも全てを眼前存在とみなす考え方に見えます。眼前存在者とは、事物をただありのままの事物として見ようとする特別な気遣いの対象となったときの存在者であり、実体に相当するからです。しかし、眼前存在だけから存在論を展開するには無理があって、なぜなら、眼前存在ではない、気遣いという現存在があってこそ、気遣われる眼前存在もあり得るので、定義上、眼前存在だけを出発点にすることはできません。ただしデカルトは、神を本来の実体として確保していたので、いわば神の作用がハイデガーにおける現存在と対応していて、神以外のものがすべて眼前存在になってしまっても存在論的な破綻からは免れている気もします。しかしそうしてしまうと、私たちは自分自身の存在の仕方について気にかけることのできる特殊な存在ではないことになってしまい、結局それはわれわれの日常について何も説明してくれない空虚な理論になってしまうでしょう。
哲学の醜聞
近代哲学では、デカルト以後、引き続きモノから始まる議論が展開していったようです。「わたし」の周囲のモノ(世界)も実体であることを証明しようと試みる議論(実在論)や、逆に周囲のモノ(世界)は「わたし」なしでは存在しえないという考え(観念論)が深掘りされました。
世界は、世界を認識する「わたし」なしで存在すると考えるならば、世界とわたしのうちで卓越しているのは世界である。これは実在論を生みだす。世界を認識する「わたし」が存在しなければ、世界は存在しないと考えるならば、世界とわたしのうちで卓越しているのは「わたし」のほうである。これは観念論を生みだす。やがてバークリは、世界はわたしが知覚する限りで、その間だけ存在すると主張するようになる。これはデカルトの問題構成の結論からは、避けられない主張なのである。
実在論は自然科学とも相性がよく、共感しやすいです。世界というモノがとにかくまずは実在していて、そこに後から「わたし」は生まれた。このことは、生まれたときには既に多くの人々の過去の活動の記録があることからも示唆される。自分が生まれる前にあったとされる世界の出来事を知れるのだから、自分が生きているかどうかに関わらず、きっと世界はそれとして昔からあり続けたのだろう。他者が亡くなるのを見届けると、自分が死んだ後も世界はそれとしてあり続けるだろうことも示唆される。こういった考え方は、今に切迫してものごとを考えていく現象学では受容出来ないのですが、実在論ではそのような直感に基づいています。
世界には諸々の法則や傾向が備わっていて、たとえば物は落下するし日は昇って沈む。だからわたしは自由自在に何でもできるわけではない。世界の実在の仕方の詳細は謎に包まれているかもしれないが、そこは科学的な活動によって随分多くのことが明らかになってきたし、これからも知見は増えていくだろう。
しかし今感じ取っている世界の情報や感覚は、実は水槽の中に浮かんだ脳がそのように思い浮かべているだけなのかもしれない、という懐疑論を提示してもよいが、だとしてもその脳や水槽の方が真の実在であるというだけで、何らかの世界が実在しているという確信には致命傷にならない。
実在論に宿題が残るとすれば、過去のことであろうと、未来のことであろうと、世界の実在は示唆されているに過ぎないということが挙がるでしょう。100年前の出来事の痕跡は色々と残っているかもしれませんが、厳密に過去の出来事を証明することができるだろうか? わたしが死んだ後も世界が今のようにあり続けると、どうして確証できるだろうか? 現在についてだって、私たちは、世界の実在を真に捉えることが出来ているのだろうか。わたしが感じているこの赤色は、あなたにとっても同じように赤色なのだろうか。
カントは、「わたしたちの外部にある事物の現実存在」について、いかなる懐疑論も打破できるような強制力のある証明が今なお存在していないことは、「哲学の醜聞であるだけでなく、人間の一般的な理性にとっても醜聞」であると語っている。
ではやはり世界は実在せず、観念論が正しいのかもしれない。世界はわたし無しには存在できないもので、とても実体とは呼べないのでは。わたしが生まれたとき世界も同時に生まれ、わたしが死ぬとき世界も無くなる、まるで寝ている間にだけ見る夢の世界のよう。世界は生まれたとき、まるで過去からずっと存在していたかのような容態を備えて生まれたのであり、無くなるときには何の痕跡も残さずただ無くなる。ここまで突き詰める考え方は独我論と言われたりして、ただ独りわたしのみが確かな存在であるということに留まる考え方でしょう。独我論は、それとして完全な説明を作り上げることはできそうですが、何でもかんでも全部夢ということにしてしまっておしまい、というような空虚な理論ですから、もっと実りある議論の展開が求められます。それに、ただ独りわたしのみを根拠にして世界が成立しているにしては、わたしの思い通りにならない物事や知らない物事が多過ぎはしないでしょうか。他者についてどう考えれば良いかも、難しさが残ります。
そんなわけで、実在論と観念論にはそれぞれに世界について説明しやすいところとしにくいところがあったようです。
ハイデガーの存在論においては、気遣いたる現存在が、まず確かに存在するコトとして確保されます(モノから出発しないので、観念論でも実在論でもない)。現存在は、さまざまな存在者を道具存在させることができるし、他の共同現存在を気にかけることもできる(独我論的観念論の回避)。もちろん、自然物などを眼前存在させることもできる(実在論的な解釈の可能性)。気遣いとして存在するのは現存在のみであって、他の存在はあくまで気遣われることで存在が可能になっているだけである(観念論的であり実在論の否定)。こういった気遣いのありようの全体が世界であって(観念論的な世界観)、眼前存在するものだけを寄せ集めた世界は存在論的には派生的に現れる一部の現象でしかない(実在論的な世界観の縮小)。以上のことは、全く当たり前の卑近なわれわれの生活を表現しているだけのことのようでもありますが、コトを議論の出発点に置いたことで、実在にまつわるいくつかの問題を回避できる問題構成が、ハイデガーの存在論においては形成されているようです。
さまざまな認識論的な方向性は、認識論的に欠陥があるというよりも、現存在一般の実存論的な分析を怠ったために、現象学的に確固とした問題構成を定める地盤そのものすらまだ獲得していないことを見抜くべきなのである。
「哲学の醜聞」とは、この証明がまだ行われていないことにあるのではなく、このような証明がつねに繰り返し期待され、試みられていることにある。このような期待や意図や要求が生まれるのは、「世界」が何から独立して、何の「外部に」眼前的に存在していると証明すべきだとされている、その当のもの[わたし]が、存在論的に十分に解明されないままに、証明の出発点に置かれているからである。
証明が不十分なのではなく、証明し、証明を要求している存在者の存在様式が十分に規定されていないことが問題なのである。
しかし、ハイデガーの存在論において実在の問題が回避され部分的なものに縮小したとしても、デカルトの懐疑論が解決されたとは思えません。実在が問題になりやすかったことの根本には、物事が真に現実に存在するという確証をいかにして得られるか、という問題意識があったのであり、このことは、実在を存在論の一部である眼前存在に押し込めたからといって自動的に解決したわけではありません。つまり次に、存在論における真理について考えてみるべきなのです。
存在論で真理を考える
真理=隠れなさ
真理とはどういう意味なのでしょうか。よく哲学の主題について「真・善・美」などと言われたりしますし、哲学では昔から活発に議論されていたようです。
ハイデガーは、真理の「根源的な意味」は、「隠れなさ」であると言います。哲学の起源は古代ギリシアの営みだと思うのですが、「真理」と翻訳される古代ギリシア語の「アレーテイア」は、もともとの語の成り立ちに忠実に訳すと、「隠れなさ」になるのだそうです。
『存在と時間』でハイデガーは、古代ギリシャ語のアレーテイアを「真理(Wahrheit)」と翻訳する慣行を牽制して、ウンフェアボルゲンハイトという耳慣れないドイツ語訳を提出する。
―(中略)―
ハイデガーは、ギリシャ語の否定辞 α- をドイツ語の un- で表現し、言葉の作りを模倣しているのである。一九四〇年代前半の講義で、ハイデガーはこのやり方を「語に忠実な翻訳」と呼んだ。アレーテイアは「レーテー(忘却)」の否定であり、この「忘却」とは今日の私たちが思い描きがちな心理的作用ではなく、むしろ、古代ギリシャにおいては「隠されていること(Verborgenheit)」の経験を意味することを、さまざまなテキスト解釈を通じてハイデガーは示そうとした。
隠されている状態から、隠されていない状態にすること(=露呈すること)が、「真理」ということであり、これは、気遣いが存在者を開示すること、現存在が存在に出会うことです。つまり、これまで整理されてきた現存在とほかの存在者との関わり合いが、そのまま根源的な意味での「真理」であるということのようです。
露呈させることは、世界内存在の一つの存在のありかたであり、<目配り>のまなざしの配慮的な気遣いも、立ちどまって眺めやる配慮的な気遣いも、世界内部的な存在者を露呈させるのである。この存在者が<露呈されたもの>である。そのことは、第二義的な意味で「真である」。第一義的な意味で「真である」のは、<露呈しつつあること>であり、現存在である。第二義的な意味での真理は、<露呈しつつあること>(露呈すること)ではなく、<露呈されてあること>(露呈されること)である。
これまで<そこに現に>の実存論的な構成について示したことは、そして<そこに現に>の日常的な存在について示したことは、真理のもっとも根源的な現象にかかわるものにほかならなかったのである。現存在がその本質からしてみずからの開示性を存在し、開示された現存在として何かを開示し、露呈させるかぎり、現存在は本質からして「真である」のである。現存在は「真理のうちにある」のである。
以上の真理解釈は、よくある哲学の真理論と比べると異質に見えます。よくあるのは、真理を論理学的な概念と考え、命題(=言明、判断)が事態と一致していることが真理であると定義するものです。しかしこの考え方は、主観と客観の一致の図式という世界観で考えられる概念であって、現象学では受容できません。また、先の実在の議論と同じく、知性的なモノ(命題)と周囲のモノ(事態)の関わり(一致)を考えることになりますが、いったいどのように関わりうるのかという問題が立ちはだかります。しかもここでの関わり方は「一致」ですから、知性的なモノと事物的なモノという異質なモノがいかに一致していると言えるのか、疑わしいです。
では、言明が真であったり偽であったりするということは、どういうことなのか。ある言明①の真偽を確認するには、現存在の気遣いが言明①に関連する存在者を開示している必要があります。開示には、語りが伴われ、その露呈されたままを言い表す真なる言明②が伴うはずです。この真なる言明②と、先の言明①の一致/不一致が、言明の真偽を決するプロセスではないでしょうか。これは言明と事態の一致ではなく、言明と言明の一致を問題にするので、少なくとも異質な存在者同士の関わりを考えることにはなりません。
また、この存在論的な真理概念では、永遠の真理というものも容認され得ません。真理は現存在による露呈なのだから、現存在の永遠が保証されないかぎり、真理もまた永遠ではないためです。現存在の現れる前にも、消え去った後にも、もはや真理はなくなる(隠されている)のです。真が偽になるということではなく、真偽の概念が消え失せるはずなのです。
真理は、現存在が存在するかぎり、存在するあいだだけ、「与えられている」。存在者は、そもそも現存在が存在しているときにかぎって露呈されるのであり、そしてそのあいだだけ開示されている。
そもそも現存在が存在する前には、いかなる真理も存在していなかったし、そして現存在がもはやまったく存在しなくなった後には、もはや存在しなくなるだろう。なぜなら真理は、開示性であり、露呈することであり、<露呈されてあること>であるのだから、そのような場合には、存在することができないからである。
科学的な真理
永遠の真理については、現存在の有無の問題だったので分かりやすいのですが、では現存在が居続けた歴史の中で発見された真理はどう扱われるでしょうか。ハイデガーはニュートンの法則に言及していて、科学哲学的な議論にも加担しています。
ニュートンは一八世紀のある時点で、万有引力の法則を発見した。この法則は、一八世紀以降は真であることが認められている。しかし一七世紀にはそれはどうだったのだろうか。人間は一四世紀にも、リンゴが地球の引力で落下するのを目撃している。しかしその時点の人々は、リンゴが落下するのは、リンゴにとっては空中にあるのではなく、大地にあるのが、その「土」としての性質にふさわしいものと考えていたのである。炎はその「火」としての性質にふさわしく、空に向かおうとするが、それと同じようにリンゴはその「土」としての性質にふさわしく、地に向かおうとするのである。
これは当時の人々に一般に信じられていたアリストテレスの物理学の理論によるものであり、この時点で物体としての地球と物体としてのリンゴが相互に及ぼす引力という思想は存在しなかったのである。それではそのときにはニュートンの法則は偽だったということになるのだろうか。ここで言えるのは、「ニュートンの法則が発見されるまでは、それらの法則は<真>ではなかった。だからといってそれらの法則が虚偽であったとは主張できないし、ましてや、存在者的に<露呈されてあること>がもはや不可能になるときには、それらの法則は虚偽になるだろうと主張することもできない」ということだけである。
ニュートンの法則は、ニュートン以前には真でも偽でもなかったということは、これらの法則を露呈して提示する存在者が、それ以前には存在しなかったということではありえない。これらの法則はニュートンによって真なるものになった。現存在はこれらの法則を使うことで、存在者そのものに接近することができるようになった。存在者がこのように<露呈されてあること>によって、この存在者は、それ以前からすでに存在していた存在者としての姿を現すのである。このように露呈させるということが、「真理」の存在様式なのである。
現存在がいなければ真偽も無いということでしたが、ニュートンの法則については、法則の発見以前、現存在がいたとしても真偽は無いとのこと。
真偽が問われるには、ニュートンの法則についての言明があり、物理現象を開示する現存在があり、開示した真理をそのままに語る言明と、法則についての言明の一致が確認される必要があります。法則の発見以前には、法則についての言明があり得ないわけですから、真偽を確認することもできないはずですね。
他の観点から言えば、ニュートンの法則が認められる以前には、そもそも真理の開示のされ方も異なっていたかもしれないです。一四世紀の学者がリンゴの落下の様子を眺めても、リンゴと地球が引き合っているという様態で開示されることはそもそもなく、いわば土の性質を有するリンゴが下方向に移動した、という現象の開示が、真理として与えられただけかもしれません。この場合、仮にこの人にニュートンの法則を語っても、偽であるということになるかもしれません。
このような真理の変化は、人類史のスケールで考えなくても、個人の経験の中で考えることができるかもしれません。例えば、血液はたんに赤い液体にしか見えませんが、実は赤血球という微小な赤い細胞が無色(~淡黄)の液体に懸濁されたものです。生まれつきこの知識を真として受け入れてる人はおそらくいないでしょう。ですから、はじめは自身の出血を見ても、何らか赤い液体としてしか開示されないでしょう。この真理と、誰かから聞き及んだ、血液は赤い細胞が懸濁された無色の液体であるという言明は、一致しないので、現存在にとってこの言明は偽であるといえそうです。ではどうなると言明が真に転じるのか。直接的には、自身の出血を顕微鏡で覗いてみるとか、遠心分離してみるとかの方法で、血液が赤い粒子の懸濁液であるという真理を開示できそうですが、現実的にはそこまでしなくても良さそうですよね。現存在は日常的には頽落していて、他者(世人)が開示した真理に伴う言明を、まるで自身が開示した真理かのように受け入れることができるはずです。”真理”について本で読むとか、テレビで見るとか、先生に教わるとかで、他者からの"説得"を受ければ、そのときから自身の出血は懸濁液として開示され、そのときになって、過去からずっとそうであった存在者として、現存在に真理として開示され、言明も真となるでしょう。
真理を個々の現存在に託してしまうこういった見方は、科学的(実在論的)には受け入れがたいかもしれません。しかし現象にとどまって考察を展開する現象学的存在論では、言明の真偽は気遣いに委ねられるしかないのでしょう。
おわりに
今回は、実在や真理といった、個人的にも非常に興味あるテーマが扱われていたのですが、『存在と時間』本文だけからではどうしても納得いくまで理解しきれず、かなり独自解釈が多くなりました…。
ようやく『存在と時間』全8巻中の5巻まで読了。今年中には読み終わりたいです。