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「合理的配慮」にモヤモヤしているあなたへ(基礎的環境整備・事前的改善措置のすすめ)


合理的配慮とは「あなたには仕方ない事情があるので特別に許します」ということではないーーー。でも実際にはそういうことになってしまっている現場がとても多いと感じています。「みんなはこうやってるんだけど、あなたは難しいから配慮しますね」というような。そうじゃないんだってことの理解を広げるためは、合理的配慮の前に基礎的環境整備・事前的改善措置があるべき、という話をしないといけないのかな、と最近思っています。


あらかじめバリアフリーにするのが超重要

合理的配慮の話でよく話題になる「あの子だけずるい問題」は、基礎的環境整備・事前的改善措置=集団的・事前的調整に十分に取り組んでいれば起こりづらいと思います。というか、基礎的環境整備が十分行われていれば、そもそも合理的配慮=個別的・事後的調整が特に必要なくなることも多いはずです。(もちろん、それでも全てをあらかじめ想定はできないので「誰かが困る」状況は当然出てきます。それは事後的・個別的に調整する必要はあります)

「基礎的環境整備・事前的改善措置(いろんな子がいることを前提に、あらかじめバリアを取り除いておくこと)」にしっかり取り組むというのは、大抵の場合、学校をもっと"ゆるくする"ということになると思います。それは、従来の"あたりまえ"を問い直して変えていくこと。だから、抵抗感は出てくるし、プロセスでは信念対立も生じてくるので大変なんですけど、それでもやる意義と価値があると思っています。

基礎的環境整備・事前的改善措置がなぜ大事か

子どもが一旦傷つかなくて済む

まず何より大きいのはマイノリティの子どもが「排除された」「自分は変なんだ」と思わずに済むということ。合理的配慮だけに取り組んでもこれはクリアできません。基礎的環境整備・事前的改善措置をしないで合理的配慮をするというのは、一旦本来は感じる必要のない疎外感や劣等感を味わせた後で、「基本的にはダメなんだけど、あなたは事情があるから特別にいいですよ」ということをやっているわけです。まず一回排除してしまっている。そんなことする必要あるでしょうか?事前にバリアフリーにできる道があるなら、それを探りたくないですか?

"本当に無理なのか?問題"をクリアしやすくなる

それから、合理的配慮のみを行おうとすると「特別な事情があることを客観的に証明しなきゃ・・・」みたいなことが起こるので、レッテルを貼って分ける(診断を取ってきてください等)とか、もしくは「本当に困ってるの?ラクしたいだけ?」という疑念を子どもに向けてしまって「あなたのはただのサボりだからもっと頑張りなさい」なんてことが発生しがち。その問題をクリアしやすくなるのは、とても大きなことです。

全員にとって選択肢が増える・過ごしやすくなる

それから、マジョリティ(とされている)子どもたちにとっても過ごしやすい環境になるというのも大きなメリットだと思います。基礎的環境整備・事前的改善措置は集団(ex,教室にいるすべての生徒)を対象にしたものなので、全員が恩恵を受けます。レッテルを貼って分けなくても「困ってる子は誰でもこの選択肢がとれる」というのが基礎環境になれば、全員にとって選択肢が広がり、苦しさが減ることになるわけです。
「ずるい」という訴えの背景にあるのは「私もしんどいのに / 我慢してるのに」という思いです。なので、マジョリティにとっても過ごしやすい・しんどくない環境になっていれば、たとえその後に合理的配慮を特定の子に提供したとしても「ずるい」という訴えが他の子から出てくることはかなり減るはず…と思います。「みんなそれぞれの"ふつう"があるので、必要に応じて個別調整しましょう」という合理的配慮を、他の子が納得するには、自分はこの基礎環境で困ってないし苦しくないという状況が必要なのではないでしょうか。

教職員の持続可能な働き方・・・という点でもよい

また、学校現場(先生たち)にとってもめちゃくちゃメリットがあると思っています。合理的配慮だけやろうとすると「無数の個別対応をするのは大変すぎる...」「あの子だけ対応が違うのを他の子や保護者にどう説明しよう...」という問題がどうしても出てきます。でも、基礎的環境整備・事前的改善措置を進めていけば、そもそも合理的配慮の提供が必要なケースが減っていきますし、説明もしやすくなっていきます。働き方改革的にも、基礎的環境整備・事前的改善措置を進めることで、中長期的には、仕事は絶対に楽になります。

学校をゆるくすることへの抵抗をどうするか

ただ、上で書いたように、基礎的環境整備・事前的改善措置にしっかり取り組むというのは、大抵の場合、学校をもっと"ゆるくする"ということになるわけで、そのことについては、学校現場の中にも保護者の中にも違和感を感じる人が一定数いると思います。なので、信念対立を乗り越える対話が必要になり、そこにはエネルギーが必要だと思います。そういう意味で、短期的にはやっぱり大変で、だから進みづらいんですよね…。ちょっとずつ「やってみる」ことで、「ラクになるな」「子どもにとってもいいな」という実感を共有していけるといいのかもしれません。ここは現場の先生たちともっとたくさん作戦会議をしていきたいです。

なお「ゆるさ」については、澤田智洋さんの発信がとても面白くて、説得?対話?の際に役に立つんじゃないかと思っています。

ぼくなりに「ゆる」という言葉を定義すると、「あっち行け」ではなく「こっちおいでよ」。難しい言葉で言えば「排除」ではなく「包摂」ということです。(中略)
「ゆる」にはいい「ゆる」と悪い「ゆる」、「ポジゆる」と「ネガゆる」があるんです。今みんなが抱いている「ゆる」は「ネガゆる」です。「ネガゆる」とは「まあ適当でいいじゃん」「なんでも許されるよね」「とりあえず何かやっとけばいいんじゃね?」みたいなたるんだ状態のことです。(中略)
「ポジゆる」は逆で、ガチガチに固まっているものに戦略的に「ゆる」要素を加えていくことで生まれるものです。停滞していたり、行き詰まっていたり、タコツボ化している場所に「ゆる」を混ぜると、ビーカーに沈殿していたおりみたいなものが攪拌されて再び動的な状態になるのです。その過程で、今までそこから排除されてきた人たちがどんどん入り込んできて、新しい秩序が生まれていくーーー。

「ガチガチの世界をゆるめる」澤田智洋

大前提は「排除は不当なこと」という認識

最後に。合理的配慮にモヤモヤする背景に排除されている原因を個人に求め、困りごとの責任を個人に帰す考え方がないでしょうか。学校も社会もマジョリティに合わせてつくられています。誰にも悪気がなくても、実際にそうなっています。直接的差別以外にも、制度的差別・文化的差別というものがあり、<学校のあたりまえ>はこれまで特定の子どもたちを意図したことではなかったとしても、結果として排除してきたのです。「それは不当なことで、変えていく必要があるよね」という認識が、ここまで書いたことの大前提として、必要だと思います。
多くの人は、マジョリティ性とマイノリティ性の両方を合わせ持っています。自分が困りやすいことについては自己責任でしんどくならずに「社会や環境の側に変化や調整を求めていい」と思えるといいなと思いますし、自分がマジョリティな部分に関しては(往々にして鈍感なので)、自分の特権を意識しながらアンテナを立てて困っている人の声を聴き、一緒にあたりまえを変えていくことができるといいなと思います。

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