金田光世歌集『遠浅の空』
金田光世さんの歌集『遠浅の空』読了。あとがきによると、二十年以上わたって詠まれた短歌を収めており、制作時期によって章を区切ったそうですが、私は歌集の第二章中盤以降に好きな作品が集中していました。多分、幻視と現実の比率が私の好みなのが、このあたりの時期なんだろうと思います。
金田光世さんの歌集『遠浅の空』全体を通じて、夢の中の出来事を詠んだ歌が多いだけでなく、その他の歌も白昼夢のような描写が頻出するのですが、それでいて対象物の描写は観察が正確で妙に現実的という印象を受けました。ダリの溶ける時計や宇宙象を連想しました。好きな歌をいくつか紹介します。
一杯のしつぽくうどん悲しみに勝る不味さに救はれてゐた 金田光世『遠浅の空』
うどんが美味しくて悲しみから救われるだと因果関係が順当で面白くないのですが、不味さで悲しみから現実に引き戻されるというところに意外性があり、なおかつ妙なリアリティもあると思いました。
握りの烏賊にわさびの透けて未だ知らぬよろこびのある春の近づく 金田光世『遠浅の空』
薄い烏賊越しに見えるわさびの鮮やかなみどりと、近づいてゆく春に対する期待感が絶妙に合っていると思いました。観察の細かさが作品の足腰を強くしている印象です。
鰭をなくし羽をなくして人のしかもなぜか女として生きてゐる 金田光世『遠浅の空』
魚や鳥ではなく人間であるというのは生物の進化の過程を鑑みれば喜ばしいことなのでしょうけれど、主体としては鰭も羽も失ったという認識であり、それと同じように女であることもマイナススタートだと思っているのでしょうか。
喫茶店に乾きつつあるお手拭きを鶴のかたちにととのへてゐた 金田光世『遠浅の空』
わざわざ「乾きつつ」と言うあたり、鶴のかたちにする行為を楽しんではいないことの表れだと思います。一人とも読めますが、私は誰かといるけど話は全部聞き流して、実質一人みたいな状態であると思いました。
熱いお茶を飲んでわたしを灯しゆく遠き帆影が揺れ止まぬやう 金田光世『遠浅の空』
熱いお茶を飲む=わたしを灯す、と読みました。熱いお茶で心を落ち着けて帆影の揺れを止めるのだと普通ですが、「揺れやまぬやう」に飲むという屈折に惹かれました。揺れていてこそわたしの帆影なんでしょうね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?