川本千栄評論集『キマイラ文語』
サブタイトルは〈もうやめませんか?「文語/口語」の線引き〉で、第一章「キマイラ文語」、第二章「近代文語の賞味期限」、第三章「ニューウェーブ世代の検証」からなります。章ごとにまったく違うことを書いているように見えて、実は首尾一貫してサブタイトルの主張を多方面から書いている印象です。
私事ですが、二〇一二年に短歌を始めてから口語新仮名で短歌を詠んでいました。口語新仮名で読み始めた理由は、単純に文語旧仮名の知識がほとんどゼロだったからですが、その後、文語旧仮名で書かれた作品を読んだり、俳句結社に入って文語旧仮名で俳句を作り始めたりするようになってからも、短歌はずっと口語新仮名で書いていました。
しかし、私の場合、短歌を作り始めて1、2年目くらいの頃が比較的楽に詠めていて、周囲から褒められることも多かったのですが、その後は伸び悩みというか、むしろ退化していく一方でした。
短歌は向いていないのかも、と思っていた頃、ある歌会で何度かご一緒した歌人(多分私の歌集も読んでいる方)から「文語で詠んでいると思ってた。口語のイメージが全くない」と言われました。
言われてみると確かに、口語の短歌というのは単なる文体の問題ではなく、ポップさとか軽快さとかチャレンジ精神とかそういうものが求められている気がして、そう考えるとそもそも私は口語で短歌を詠むような性格じゃないのでは?と思いました。
そこで、今年の春から文語旧仮名で短歌を詠み始めることにしました。(ちなみに仮名づかいまで変えたのは、俳句を旧仮名で詠んでいるので作っていて混乱しないためです。)
しかし、文語にした途端、借りてきた猫のような、可もなく不可もない詰まらない短歌ばかりになってしまいました。
ここを乗り越えられるか、もう短歌は諦めて違う趣味を始めるか…などとあれこれ悩んでいた時に読んだのが本書だったわけです。
本書で語られているのは、そもそも「口語」「文語」という括りが不正確で無意味だということ。文中には「近代文語は古語ではない。出自からして元々がミックス語、キマイラ的な言語なのである。」「現代短歌に携わる我々は、それがさらに変化した現代文語とでも呼ぶべきミックス語を使っている。名詞は何でもあり、動詞や形容詞の意味は現代語そのもの、しかし動詞・助動詞の活用や助詞の用法は完璧に…。これが現代文語であり、まさにキマイラ的言語なのだ。」とあります。
以前、堀田季何さんも何かの折に同じような趣旨のこと話していて「確かに、万葉集の和歌を称賛する歌人でも、万葉仮名で詠んでいる人なんていないもんなあ」と納得したことを思い出しました。
本書によると土屋文明も同じようなことを主張していたそうで、学識豊かな方が短歌の文体を深く考察すると、同じような結論に行き着くんだなあと感心しました。こういう意見を聞くと、口語か文語かとあれこれ思い悩んでいる自分が馬鹿らしくなりますね。(じゃあ、どうしたらいいのかとなると、全然解決はしないのですが。)
本書の後半は、ライトバースの流れの中から生まれたニューウェーブに当てられ、ニューウェーブ作品をめぐる小冊子での評論や座談会が収録されています。
短歌(和歌)の文体が破壊と再生を繰り返すようにして変化していった過程があって、その潮流の一つがニューウェーブだったということなんだろうと理解しました。
私は以前から「穂村弘さんの作品は好きだけど、穂村弘さんの作品を真似たようなタイプの作品は大概駄作しかないのは何故だろう」と思っていましたが、本書を読んでようやく体感ではなく理屈で理解できたように思います。
また、私は中学・高校時代に、塚本邦雄を初めとして現代短歌は夢中になってあれこれ読んでいたのに、大ベストセラーである俵万智さんの『サラダ記念日』には全く興味が湧かず、初めて読んだのは塔短歌会に入会して数年後だったのですが、本書の「俵万智の教師詠」と「座談会 ニューウェーブ世代の歌人たちを検証する」での俵万智さんをめぐる話の部分を読んで、漠然と引っかかっていたモヤモヤが言語化されたように感じました。
それとは別に、個人的に注目したのは、座談会の中での江戸雪さんと川本千栄さんの以下のやりとりでした。
江戸「(前略)私も完全口語体にしたら自分の表現したいものが出てこないっていうか。だから文語体と口語体が混じっちゃうんだけど。暗い深刻なこと、自分の本当の詠嘆を表現しようとする時、文語を使ってしまうところがあります。
川本「口語だと間が抜けちゃうところがありますよね。」
江戸「風通しが良すぎて。」
私は、文語にチェンジした後の月詠で、災害と戦争の一連を詠みました。(来月十一月号に何首か載るはずです。)
最初は文語で詠み始めたのですが、どうしても文語では詠めなくて、結局、十首とも口語に戻しました。
私の場合、本当に悲惨な現実を短歌で詠むなら、作者の勝手な主観でありもしない救いや甘さを入れたくないと思っているのですが、文語だとどうしても詩歌らしさというか朗詠の対象という甘さが滲んでしまう気がしてなりません。(同じ理由で旧仮名も使いたくありません。)
特に、東日本大震災について詠むときには、生身の人間が実際に発したような言葉、あるいはできる限り主観を排して事実だけを正確に詳細に記録する公文書のような言葉で詠もうとしていた気がします。(自覚的にそういう文体を選択したというよりも、御涙頂戴的な気持ち悪さや詩歌の自己陶酔感を忌避した結果、自然にそうなった感じでしょうか。)
うまく言えないのですが、文語だったら届きそうもない急所を攻めるために口語で詠み、確実に息の根を止めようとしたという感覚でしょうか。
私が口語で詠んでも文語に変えようとしても、ましてミックス体もうまくできない原因はもしかしたらこのあたりにあるのかも知れません。
自分の文体をどうするか、さらには短歌自体を続けるかどうか、そういった自問自答する指針として、今後も読み返したい本です。