古川陽子歌集『顔をあげて』
古川陽子さんの歌集『顔をあげて』読了。帯に小池光さんが「戦後一庶民のその貴重な自分史である」と書いているとおりの歌集です。作中主体と作者が同一ではない短歌の良さもありますが、この歌集のように、実体験に基づく短歌は、意図せずとも、固有名詞やアイテムの力が強いと改めて実感しました。→
つぶしたる羽虫の羽がまだうごくごめんなさいねとしつかり潰す 古川陽子『顔をあげて』
つぶした後の羽虫をじっくり観察しているところも、謝りながらも「しつかり」潰しているあたりも、現実を生きている人間の迫力があると思いました。
エダマメの種を買はむと言ふわれにはじめから枝豆買へと言ふ人 古川陽子『顔をあげて』
食べることだけが目的なら売り物の枝豆を買った方が手っ取り早いのですが、栽培や収穫の過程を楽しみたい人もいるわけで、根本的な人間性の違いを具体物で端的に言い表していると思いました。
朝な夕なにまつはりつきて幾たびもわれに踏まれしこのかぎしつぽ 古川陽子『顔をあげて』
飼い猫が死んでしまった一連より。猫と書かずに「かぎしつぽ」だけで表すのが上手いし、度々尾を踏まれてもなおまとわりつく猫との信頼関係の表現も見事です。
真夜更けてひとり茶の間に爪を切るもうふた親はこの世にをらぬ 古川陽子『顔をあげて』
夜に爪を切ると親の死に目に会えないという迷信がありますが、既に両親が亡くなっていればもはや関係ありません。寂しいと書かずとも、深夜、家族のいない茶の間で背を丸めて爪を切る姿が孤独感に溢れてます。
俺はいま何をしようと思つたと聞かれてわかる妻にはあらず 古川陽子『顔をあげて』
勤務時間中に上司から聞かれれば正確に答えられる自信がありますが、夫婦であれば聞かれてもわからないというのが健全な関係だと思うので、この言い切りに爽快感があると思いました。
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