こちら側で生きているからね
5月の終わりに、一緒に暮らしていたハムスターが亡くなってしまった。
躁うつの、しかもペットを買ったことのないわたしに
可愛い姿をたくさん見せてくれたハムスター。
このハムも酷い小心者で、ストレスで死んでしまうのではと
初めの方はわたしもハムもビクビク暮らした。
月日が経ちだんだんお互いに図太くなってきて気の置けない共同生活者になりつつあったが、
ある日ハムの胸に腫瘍ができ、通院し、薬を飲ませ、
この薬を飲ませるための保定がなかなかうまくできず
猛烈にストレスが襲い、
しかしハムは一度あげればなぜか保定せずとも自発的に薬を飲んでくれて助かった。
それでも腫瘍は消えず、手術。とても痛々しかった。
病理検査で悪性腫瘍だとわかり、転移の可能性も聞いていたが、
かなり順調に回復していた。
やっと気持ちも落ち着いてきたところで再発。
そこからあからさまに不調そうな姿になって老いてしまって、
もう看取るしかないと診断を受け、新しいおやつをあげた翌日だった。
食べかけのおやつを傍に。
それからできる限りの供養を考えた。自分のために。
エゴだと思っていたことも、しょうがない。なんとしてでもこの死に手垢をつけたくて仕方がなかった。
花をたむけ、なんとかこのハムの身体を永遠に、こちら側に繋いでおけないだろうかと考えた。
前からそろそろだと思い供養の仕方を考えていたが、
骨を残したい、という気持ちから、解剖学の先生に相談し、解剖・骨格の保存をすることにした。
それから1ヶ月、解剖と骨格づくりを日々行った。
最初はショッキングな体験に夜眠れなくなったりしていたが、
「解剖は愛だ」という先生の言葉を信じ
だんだんと愛しみながら取り組むことができた。
先日無事完成した骨格を最終チェックしていただき、
週明けには自宅で供養ができるだろう。
この一月半もまた死と向き合うための期間であったし、
死を永遠につなぎとめることによって、
もふもふのハムスターだった時とはまた違う形で出会い直すことができた。
より深く知ることができたし、
生きていた時以上の距離の近さと手間で接していたように思う。
こういった過程を踏んでも
未だに家の中にハムの気配を感じてしまうし、
寂しく思う。
死によって生きていた時以上に介入できてしまう分、
いつまでも思っていたいと思う。
ハムが死んでしまった日、死んだ人たちのことも思い起こされた。
残された者として思うことだけが許されている。
ハムの骨にはもうあの可愛い命はいないけど、
残った骨と残された人として、しばらくこちら側で過ごしていこうと思う。
本当にエゴでしかないと思うけれど。
生きるものとして死を思うことはそういうものなのかと思った。
わたしは生きている。