塔2024年8月号気になった歌10首①
ウドは独特な食感と風味のある山菜。自生しているもののほか、栽培することも可能。栽培したウドの収穫前には、畑から株をいったん掘り下げて、もみ殻の中に移植することで、柔らかく食べやすいウドとして栽培が可能。「掘り上げる」という言葉に、手間をかけつつ丁寧にウドを収穫する様子がうかがえる。和え物に天ぷらにウドを楽しむ姿から、春を迎えた喜びが伝わってくる。
なかなかインパクトの強い歌。やどかりは、自ら背負う殻に一人で住んでいるわけで、主体はやどかりに生まれ変わったとしても、同じ家に住もうとパートナーに話しかけている。また夫婦/恋人になろうという甘さではなく、物理的に同じ空間にいろという意志に、どこか狂気めいたものも感じる。
一連の「猫たちは溶けあうやうにして眠るそれぞれちがふ夢をみながら」もいい。こちらは、物理的な体は溶けあうように見えるが、それぞれが別の夢を見ているという描写で対比的。
積み木遊びをしている子供から、その家の中に「ママ(=主体)が住んでいる」と伝えられ、積み木の中の自分に会ってみたいという。積み木の家の世界は、実在するこの世界とは別の世界。現実とは違う世界で自分がどのような存在になっているか、自分とは違う自分への興味がわいている。
美しさの比喩として、砂の城を波が崩していく様子を表現していることに独特な美意識がある。主体の妹が壊れてしまったというのは、精神的なものだろうか。心痛むできごとの中に、どこか美しさを感じてしまうのは、日本独特の「滅びの美学」のような雰囲気もある。
自宅のベランダや庭だろうか、どこか気になっていたものの、その正体を確かめるほどではなかったものが、温泉に行って帰ったらなくなっていたという光景が浮かんだ。とりとめのない光景ではあるが、「鳥」と「石」では大きく異なり、それを無意志のうちにどちらかではないかと考えていたことにスポットライトがあたっている感覚がユニーク。
「しみ」は汚れでネガティブなものだが、子どもがその輪郭をなぞったら泳ぐ魚に見えてきたという楽しい歌。固定観念にとらわれず、自由な発想をする子どもの世界に主体自身も入り込んでいるよう。
数学の授業で、先生が式を「展開」させることで、世界が「展開」する。数学の世界は、私たちが生活を送る実際の世界とは異なる独特な美しさや世界観があって、主体は勉強をしながら、広がっていく数学の世界を楽しく旅しているよう。
「連休の果てて」がおもしろい。連休という期間を表す言葉に実態があって、それが「果てて」しまったというようなニュアンスに、私たちの大好きな「連休」の存在感が引き出されている。巫女が作業をしているという姿の平日感も的確。
アイスの定義に対する挑戦的なまなざしがいい。主体にとってアイスの価値は「刹那性」が最重要。それは、アイス自体が溶けてなくなるという刹那性を有するとともに、それを食べる人間にも、「今ここでどうしても食べたい」という刹那性があるとともに、人間味あふれる感情に価値を感じているよう。
下の句の微妙な感情を表す場面として、上の句の場面に実感がある。充電器を探している人がいるが、直接的に主体が問われていないので、黙っている様子から、積極的に嘘をついて避けるほどではないが、関わらなくていいなら関わりたくない人が浮かぶ。しかし、そこまで意図的に感情が動くということは、主体自身の「嫌い」という本当の感情を押し殺しているようでもある。
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