私が賞にこだわる理由(犬にしてはよくしゃべる#6)
昨日の午後、初谷むいさんがスペースをされていた。
スペースでは、事前に集めていた初谷さんへの短歌に関する質問に対して、丁寧に答えていた。
その中であった「私は短歌を詠んだ瞬間が最高潮だから、あとからあまりふりかえらない」という話がとても印象的だった。
(あと、スペース中、初谷さんの飼っている鳥がずっとさえずってて、ASMRとしてもめちゃよかったです。)
そして、夜は、野村日魚子さんがスペースをされていた。
朗読と野村さんが短歌をはじめた経緯など、とても興味深かった。
百年後の歌集から何首か読んでいたのだが、野村さんの情感豊かな声に乗ると、韻律とは声に乗って完成するんだ、短歌って歌なんだな、という発見があった。
そして、短歌を始めた経緯が、「もともと小説を書いていたが、小説を成立させるために、書きたくもないシーンを書かなきゃいけないのが嫌で、詠みたい場面だけを詠めばいい短歌がフィットした」という話がとても印象に残った。
(あと、野村さんの声が、優しさの中に深い情感があふれるような声で、ものすごく魅力的でした。)
私はなんで短歌をやっているんだろう。
私はなにを表現したいんだろう。
先日発行された西瓜第10号の読者投稿欄「ともに」において掲載いただいた「お祈り」という5首連作に西瓜同人の三田三郎さんから寸評をいただいた。
短歌をはじめてからもうすぐ3年になるが、ずっと「詠みたい情景を詠むこと」と「読者に伝わらないこと」との葛藤が続いていて、今もまさにその渦中でぐるぐるまわっている。
短歌を投稿したり、発表したりするときは、葛藤があることを隠しながら、自信満々の顔を作っていたつもりだったが、三田さんにはお見通しだった。
そして、その葛藤が三田さんに伝わったことが逆に励みになった。
隠しても滲んで伝わってしまうものが、その人間の本質。
私は、ちっとも破れかぶれでも、奔放でもない。
けれど、短歌の世界では、破れかぶれで奔放な「中型犬」になれるのだ。
舞台はでかければでかいほど演じてて楽しい。
だからまた、私は賞に向けて作品を作る。