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アルコール依存症の治療を受けていた頃の話(南関東返歌推進協議会会報#2)

さみしさは揮発性ではないけれど、分け合う赤星の瓶ビール/toron*

「日日」(『たんたん拍子vol.3』)

つぶされるまではやさしくうなずいて炭酸水にしずむ梅干し/中型犬

自作短歌

ずっと続く微熱の理由

7月の半ばごろから微熱が続いて、すわ、コロナかと浮足立った。

ちょっとでも体調が悪ければ、病院に行って、レントゲンとかCTとかを受診し、結局なにも見つからずにロキソニンをお土産にもらう、こっそり健康優良おじさんとして、人生初の大病かもしれないと不謹慎に胸の鼓動が早くなったが、全く他の症状がない。

微熱もずっと続いているわけではなく、朝は36.8℃で、夜測ると37.3℃とか、1日の中で上がったり下がったりする。
平素よりガチでお世話になっている超絶忙しい病院様にご迷惑をおかけできないので、平日は早めに寝て、休日は最低限の買い物くらいで横になっていたのだが、全然良くならない。

微熱が続く体験がはじめてで、微熱といえば、恋のはじまりみたいな甘い比喩だとばかり思っていたのだが、身体的にキツいということを初めて知った。

だるい、頭が重い、眠れない。

ぼんやりとしながら、コロナによる病床逼迫の影響を軽症の方で感じるという誰にも弱音を吐けない鬱展開で、気も滅入るばかりであった。

8月に入ったある日、急に治った。

実際にはくそ重いけど、軽く感じる体を通勤電車に載せながら、なんだったんだろうと思いながら、職場に行って、原因がわかった。

その日から、職場の苦手な人が夏休みだった。

まじで中学生かよ!と自分にキレそうになったが、三つ子の魂百までというとおり、メンヘラの魂百までなので、納得した。

人間関係のストレスに弱すぎる。

そして、そのストレスをお酒で解消してしまう。

いろいろあって、確かに7月に入ってから酒量が増えていた。

ただの二日酔いかよ!とか、言わないの〜(姫ちゃん©)

お薬としてのアルコールを接種して、副作用としての微熱を抱えながら、病院に行かず、欠勤せず、よく働いて偉いじゃないか!ひれ伏せろ!

ごめんなさい嘘です反省してますごめんなさいねこかわいい。

そんな人間なので、数年前にアルコール依存症の治療を受けていた。

入社以来、毎年、血圧と尿酸の健康診断に引っかかって、病院に行っているのだが、その年も例年通り、

「検査の結果、肝炎とかはないんで、肥満ですかね」
「すいません、少しずつがんばってみます」
「はい、お薬出しときますね」

という五反田団の劇団員ばりの自然な演技を披露して帰ろうとしたところ、そのまま別室に通されて、ソーシャルワーカーを名乗る方の面接がはじまった。

いわく、アルコール依存症であると。

「お、おれ、確かに毎日台所でブラックアウトしてるけど、仕事や家族に迷惑かけたことないし!」

というクソ旅劇団みたいなセリフまわしをしたかもしれないし、してないかもしれない。

ただ、事実として翌週からワークブックを渡されて、治療がはじまった。

同じ問題を抱える人たちが集まって自らの経験を話し、分かち合う、自助グループの集会も通った。

マジで、EminemのWhen I'm GoneのPVで見てたことが、実際に目の前で起こってて、さらに自分が参加者になっていて、とにかくへこんだ。

ただ、1年くらい経って、そのソーシャルワーカーの方が異動になって、治療が急に終わった。

何だったんだろう。

治療は、完全な断酒ではなく、ゆるやかに減らしていくプランだったので、ありがたいことに確かに減酒には成功したのだが、それでも量的にはWHO基準にあてはめるとやっぱり依存症で、そこから数年経ったら、単純に加齢により酒量が減ってWHO基準でもアルコール依存症ではなくなった。

とはいえ、やはり自助グループの経験は大きく、そのころ仕事や家庭で色々問題を抱えてたけど、少なくとも仕事の方はちゃんと抱えすぎていたものを整理したり、ポジションも変えてもらったりして、「生きよう」と思った。

自助グループに参加するまで、アルコール依存症なんて全然違う世界の話だと思ってたら、参加者が輪になって話しているのを聴き、自分も話すことで、それなりに自分のエピソードが負けてなかったりしたことに気付けて、ようやくそこでしんどい状態にあることを認められたし、そのときはそんな状態になってることに気付かないくらい追い込まれてました。

皆様方も、しんどいときは、逃げましょう。
酒以外に。

「評をがんばる」というおもしろさ

今回返歌を書かせていただいたtoron*さんの短歌は、歌人サークル「たんたん拍子」の発行するアンソロジー「たんたん拍子vol.3」からの1首である。

寂しさは、水が蒸発するように自然と消えるものではない。
けれど、人間は気の合う人とお酒を一緒に飲んで話すことで、寂しさを分かち合うことはできる。
小さいコップに注がれた瓶ビールにそれぞれの寂しさを注ぎ合って飲み干してしまうような、情感のある素敵な歌である。

たんたん拍子vol.3では、メンバー6人の連作と連作評がセットで掲載されていて、これがおもしろい。

一人で連作を読んでいると、様々なことを思うのだが、自分の読みが合っているのか、もしかしたら別の読み方があるのではないのか、すごく気になることが多い。

そうしたときに、別の方の評があると、やっぱりそうなんだ!とか、そういうことだったのか!と気付きや発見があってより連作を楽しむことができる。

また、評をメンバーで送り合っていることで、プレイヤー目線の評もあり、評者の思考過程が垣間見えることで、評者の連作の読み方にも厚みが出てくる。

そんな顔したりするんだえんぴつを噛む子だったと話しただけで/榎本ユミ

「さびしい骨」(『たんたん拍子vol.3』)

榎本さんの連作は、主体の感じる生活に根差した「さびしさ」が主題になっているように感じた。

その寂しさは、絶対的な孤独というより、社会の一員として生活し、友人や家族もいるが、他者との関わりがあるからこそ、自分が分かられていないことで寂しさを感じている。

引用した歌は、自分の常識と相手の常識の違いに寂しさを感じている。
育ちの良さのような、変えられないものが示唆されていることがより寂しい。

あと、この歌に限らず、榎本さんは、会話調の短歌が巧くて、この歌も「えんぴつを噛む子だった」というセリフ部分は、平仮名にすることで幼少期のイメージにスムーズにつながっている。

姉ですか 水菜みたいにしゃきしゃきと健康的な遺影でしたよ/草薙

「うまくやる」(『たんたん拍子vol.3』)

亡くなった人の写真である遺影につながる比喩の「水菜みたいにしゃきしゃきと健康的」というのが、あくまで亡くなった姉にかかるのではなく、遺影ににかかっていることから、かえって健康的ではなかったことを推測させる。

タイトルの「うまくやる」は抽象的な表現でありながら、死を意識させる歌がいくつもあることとの対比で、「うまくや(って、なんとか生き)る」というように感じた。

また、連作の中での食べ物の使い方が絶妙に感じた。

おまんじゅうが心に寄り添ったり、嘘を隠して羅臼昆布を引き裂いたり、焼きそばをパンにはさんで人類の愚かさを感じたり、食べ物が具体的であるゆえに、不思議なイメージに引き寄せられる。

旅にでる真夏の朝の乱反射する車こそ父性だったか/小俵鱚太

「そら想う海」(『たんたん拍子vol.3』)

父親の墓参りに行きながら、様々なことを思い出す連作。

この車は、父親も乗っていたものだろうか。

その車が真夏の朝の鋭い光に照らされ乱反射する様が目に浮かぶ。

そこにそのようなある種の激しさのある情景に父性を感じるということは、父はとても輝くポジティブな存在だったということだろうか。

すぐ次の歌が「訪うたび十分ほどで祭壇がセットされちゃう墓に居る父」という拍子抜けするほどのあっけなさがあることに妙がある。

午前二時 踏切のない街に住む俺たち上手くすれ違えない/若枝あらう

「ユニゾン」(『たんたん拍子vol.3』)

当方の音楽や楽器への知見が薄く、小俵さんの評を読むことで、読みが深まった。

小俵さんが評で指摘している「メンバーの作品を水平方向に読み比べるのはもちろん、前回の作品と垂直方向に読み比べをすることもできる」という指摘は、とても重要で、短歌が一定の私性を前提とする以上、その作者自身の私性を軸にして、思考や環境の変化を短歌から感じるというのは、より深くまで読みを深めることにつながる。

この歌で不思議なのは、素直に文章を受け取ると、逆に踏切がある町ならば上手くすれ違えるということになってしまうのだが、妙にわかるようで、わからない感覚。

小俵さんの評では、この歌の始まりが時間であることで、フィクションを示唆するという読みがされているが、単にフィクションとも言い切れない、イメージの比喩のような感じも受けた。

選べずに両方買った菓子パンの二個目を食べるときの静けさ/中嶋港人

「自薦三首」(『たんたん拍子vol.3』)

中嶋さんの作品は、連作も素敵だったのだが、冒頭に合った自薦三首も光っていた。

日常に無数にある小さな選択。

菓子パンを選んでいるときは、テンションが高いのだが、結局2つ買ってしまうと、お腹自体は1個で満足してしまって、期待していたほどの幸福感はなく、優柔不断にふるまった自分を責めるような気持ちになってしまう。
共感性の高い瞬間の切り取り方が見事。


たんたん拍子は、インターネット上で行われている歌会サイト「うたの日」で出会ったメンバーで作られた歌人のグループである。

うたの日では、評を送り合う機能もあり、プラットフォームから派生したグループとして、出身母体への敬意を感じる。

アンソロジーでありながら、お互いに評を送り合っていることで、作品集という枠を超えて、ユニットの共作としてのおもしろさがある。

toron*さんはすでに歌集を発行するなど、今後、個人個人の活躍がされていくものと思うが、だからこそ、この6人の短歌と評を並べて鑑賞できる機会は今後、より価値が高まっていくものと考えられ、たんたん拍子の今後の活動も楽しみにしていきたい。

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