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「茂吉を新しく読む」覚え書き

「茂吉を新しく読む」(間瀬敬著、不識書院、2021)を読みました。
印象に残ったところを書き残します。

晩夏ばんかのひかりしみとほる見附みつけしたむきむきに電車でんしゃ停電ていでん

『あらたま』では、「停電」と題した一連にある。赤坂見附下には電車が色々な方向から集まってくるので、「むきむきに」となった。その写生的な把握によって活写された「電車でんしゃ停電ていでんり」が単純でいい。都市の一情景がよく表れている。

p58

「むきむき」は「ムキムキ」だと思って、茂吉には、電車がいっぱい集まってくるのが、筋繊維が集まるマッチョボディに見えてるとか、アララギ、エクストリームすぎるぜ、と思っていたら、「むきむき」は「めいめいにさまざまな方向を向いていること」の意味のようだ。でももう、マッスル短歌にしか読めない。そして、超かっこいい。

私がこの点に気づいたのは、「アララギ」誌上の会員の歌と土屋文明の歌の間に大きな違和感がないのに対し、茂吉の歌と比べると、何か違うという感じを持ったからだ。そうして突きとめたのが、一首一物ということだった。むろん全部が全部そうではないが、そういう歌が多いのである。考えてみるに、一首一物であれば、余計な物が入りにくいので、歌が単純化され、そこに本人の空想も入りやすい。その空想が読者に余情を与える。そのことは「象徴」に無関係ではないだろう。

p63

単純化されることで余情を生むという指摘がとても興味深い。

茂吉は、「写生」が単なるスケッチではなく、「生を写すこと」「生はイノチといふことである。」といい、さらに「実相に観入して自然・自己一元の生を返す」と定義した。

「実相」が「リアリズム」で、「観入」が「のぞきこむ」の意であれば、「実相観入」とは、「リアリズム、すなわち現実を通して、その内側をのぞきこむ」という意になる。「その内側」というのは「作者の心」ということになるのだろう。つまり「主観」がそこにあることになる。

p75

むずいぜ。ただスケッチするだけでは写生にならず、その現実を通じて、作者の心をのぞきこむような歌でないといけない。
私はこの記事を書きながら、「ぐんぐんグルトα」という飲みものを飲んでいるのだが、ただ飲んでいるのではなく、この快眠・快腸ケアという機能性表示食品によって、さっき二郎系ラーメンをマシマシで食べたことを帳消しにしようとしている。そうした心の動きまで詠むということだろう。

ぐんぐんグルトα
ましまし

上田三四二の「斎藤茂吉論」のはじめに、茂吉の歌は「業余のすさび」であったということが書かれている。「業余のすさび」あるいは「業余の吟」ということは、アララギにおいてよく言われた。つまり生業があって、その余技としての作歌である。

p125

「すさび」は、「荒び/進び/遊び」で、「興にまかせてすること。慰みごと。」とのこと。

「アララギ」創刊号巻頭の佐千夫の文「願くは先つ其私心を去れ」は次のように書かれている。「人間は何程学問かあつても知識かあつても又才能があつても、自ら其私心を制しうるたけの修養と、本来の良心とを確保するたけの意志力がなければ、甚た如何がはしい人間と云はねばらなぬ、公明心の使役に供してこそ、学問意識才能も人間の利器なれ、私心一度公明心を掩へる人間の利用に任するならば、学問知識才能は究極人間の凶器に過ぎぬ」

p189

佐千夫、ブチギレざえもん。

この文は、稔の歌に対する考え方がよく出ている。つまり、歌は反対か賛成かという意見を述べる道具ではなく、作者にあっては「レッテル以前の感動」を表現するものだというのである。

p256

柴生田稔についての一稿の一部。歌の内容が、好戦的か、反戦的かで評価されることに対して、歌の本質は異なるところにあるという柴生田稔の主張は、示唆的である。

とても勉強になりました。
特に実相観入の考え方は、なかなか難しかったのですが、ゆっくり考えていこうと思います。

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