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短歌五十音(あ)相原かろ『浜竹』

感情の動きを発見する。

『浜竹』は、2019年に出版された相原かろの第1歌集。
相原は、1976年生まれ。2005年から短歌の投稿をはじめ、2006年から短歌結社「塔」に入会している。
本書には、2006年から2017年までの401首が、Ⅰ(2006~2010)、Ⅱ(2011~2014)、Ⅲ(2015~2017)の3つの章に分けられて収録されている。

くっついた餃子と餃子をはがすとき皮が破れるほうの餃子だ

「閉じて始まる」

私がこの歌集を知ったのは、砂子屋書房の一首鑑賞「日々のクオリア」に掲載されていた生沼義朗の記事である。

この記事で生島は、引用歌について、次のように評している。

掲出歌は巻頭歌である。店屋なのか自宅なのかわからないが、上句は現実にあったであろう眼の前の出来事を描く。下句の「皮が破れる方の餃子だ」に作中主体の屈折と自嘲が如実に表れる。と同時に、この歌が第1歌集の巻頭に置かれることで自己紹介の意味合いも出てくる。ここで読者は興味を持つし、導入として絶妙である。

筆者は、この歌を読んだときに、直感的にいいなと思ったのだが、生島の評を読んで合点がいった。
歌自体は、淡々と詠まれているようで、出てきた餃子の皮がくっついていて破れるという多くの人が経験したことのある光景と、やや自虐的ながら共感性のある感覚の重なりが自然と感情として浮き上がってくる。
さらに言えば、一見淡々としたユニークな場面の切り取りのようで、きわめて繊細な作中主体の感覚もある。

吊り革を両手で握りうつむいて祈る姿で祈らずなにも

「上り」

功罪とまとめられつつ大半のページは罪についてであった

「功罪と胡麻」

もち米をつきつつ杵の手ごたえに餅へと変わるしゅんかんが、来た

「茶碗蒸し好きの叔父さんと犬」

1首目、満員電車の中、両手で吊り革を握っている姿は、祈っているポーズに類似する。しかし、その時間は、ただ苦痛に耐える時間であって、何も考えていない。

2首目、「功罪」というタイトルがあれば、その内容において、「功」と「罪」の比重は同等であることが想起させられるが、「罪」を浮き立たせるための「功」しか書かれていないことに主体は違和感を感じている。

3首目、もちをついているときに、「もち米」が「もち」になる瞬間を杵の手ごたえで感じている。結句の、ひらがなで表記された「しゅんかん」と読点のリズムから、その瞬間が一瞬スローモーションになるようなおもしろさがある。

通勤・通学、タイトルと内容が違う文章、もちつき、という誰もが共感できるような題材に作者独自の視点・感覚での場面の切り取りがある。

歌集全体を通じて、いわゆる「シュール」と評されるようなおもしろさのある歌が多い。

トラックの屋根に積もった雪がいま埼玉県に入って行きます

「閉じて始まる」

煌々とコミュニケーション能力が飛び交う下で韮になりたい

「空白能力」

単三のアルカリ電池を六本も要求するとは思えぬチカラ

「売られて要求する」

1首目、埼玉県に入って行くのは、トラックであり、屋根の雪は附随しているだけだが、雪にフォーカスした描写におもしろみがある。大ヒットした小説・映画・ドラマのタイトル「いま、会いにゆきます」をもじったような下の句に愛唱性もあって楽しい。

2首目、社会生活でコミュニケーション能力がいかんなく発揮して活躍している人たちを前に、主体は、韮になりたい、と言う。なぜ韮なのか、しかし、こう言い切られると、もう韮以外ではありえない。

3首目、電子機器を動かすための電池の量が、電子機器のパワーに比例していない。「アルカリ」に寄った「チカラ」というカタカナの表記に、妙な言葉のパワーがある。

また、歌集には、家族や親族を題材にした歌も多い。

夕方の暗さの中に落ちていて母がテレビに照らされている

「夕方の作りもの」

絶対に打ち首だよねとわらいあう母と妹アンド煎餅

「枝豆拾遺」

甥っ子へ絵本を選んでいるときの我の見た目を善とは思う

「いい夫婦落ちています」

1首目、夕方、明かりをつける前の薄暗いリビングで、テレビの光に照らされている主体の母親。「落ちていて」に、暗がりの中にたたずむ雰囲気のどことない寂しさがある。

2首目、「打ち首」と「わらいあう」の対比が鮮やか。煎餅を食べながら談笑しているのだろうが、「絶対に打ち首」という言葉に狂気が潜む。

3首目、甥っ子へ絵本を選んでいる自分を客観的にとらえたときの善良さに、本当の自分との乖離を感じている。

こうした独特の視点で詠まれている歌には、自らの感情の動きに対する発見への冷静な視点がある。

証明写真作成小屋から出てこない末路もあるか脚だけ見えて

「感性証明写真」

黒いものばかりですねと言われたり黒酢とタフマン買ったばかりに

「大人六人永久磁石」

白飯にゴマ塩かけているあいだ安定している我かと思う

「近くまでカニカマ」

1首目、ありえないことでも、ありえるかもしれないと思った瞬間に訪れる恐怖がある。脚だけ見えている証明写真小屋にはその説得力がある。

2首目、黒酢とタフマンは、生活に必需なものでもなく、たまたま持っていただけだろうが、それを見た人からかけられた言葉から、共通性を発見してしまう。そして、その人にとっての主体のイメージは、もう「黒」になってしまっている。

3首目、白飯にゴマ塩をかけるという生活の中の生活ともいえる行為の瞬間に自分が安定していることを発見している。自動的にやってしまっているような生活にこそ、心の安定があるのだ。

佐々木さんの、この完結なフレーズの最後「常識を捨てて、発見せよ」は作歌の基本であると思います。そして、付け加えるならば、発見は、目にした対象の発見ではないのです。(中略)これまで気づくことのできなかった新しい<私>に出会える。

NHK短歌新版作歌のヒント(永田和宏著、NHK出版、2015)

2015年まで塔短歌会の主宰であった永田和宏の言葉を借りれば、短歌の一つの魅力は、作歌により新しい自分を発見することである。

歌集『浜竹』は、独特でおかしみのある歌の中に、いくつもの発見が潜んでおり、私たち読者は、その発見を楽しみながら、自分自身の心の動きにも出会うことができる。

次回予告

「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。

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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれば嬉しいです。

次回は初夏みどりさんが石川啄木『新編 啄木歌集』を紹介します。
お楽しみに!

短歌五十音メンバー

初夏みどり
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桜庭紀子
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ぽっぷこーんじぇる
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中森温泉
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