少数派を生きる人とスピリチュアルコミュニティ
自分という人間がよくわからなかった
私はずっと、何か「これだ」と思ってやり始めると、時間も忘れてそれだけをやり続けてしまう。「満遍なく、バランス良く」ということは、人生には皆無。
実家の自分の部屋は物がどんどん積み上がっていって、でもひとたび片づけ始めると徹夜して片付けてしまう。
無くし物は当たり前、出したものはしまうことを忘れてしまう。学校に行く時は毎日、財布や鍵、定期券が見つからずにわーー!っとなってから出かける。
受験したいと決めたら、朝から寝るまでひたすら勉強して、受験が終われば勉強はいっさいせずに、テニスに没頭して全国大会へ。歌手になると決めたら、そのテニスもやめてしまった。
遊びで友達にリフティングを教わった時、面白くてひたすらやっていたら友達は帰ってしまって、それでもやり続けて、後から気づいたら太ももが広範囲に内出血で真っ青に。家族もびっくり。
これだ、という手帳が見つからなかったりすると、自分ですべて手作りして、1mm単位で納得がいくまで作り続けたりする。大人になってからも、一時の瞬発力と爆発力で何かを成しても、どかんと心や身体を崩してしまう。
そう、度合いというものがわからなかった。みんなはどうやって生きているんだろうって、バランスの取れなささに苦しんだ。
集中力と瞬発力が出ている時が自分なのだと思っていた
それでも、高校くらいまでは、その集中力と瞬発力で、なにかは著しく出来なくても、なにかしらは秀でていたので、なんとかやっていけていた気がする。
それに、生き方がもっとロックだったな。社会や世界に対して言いようの無い憤りを抱えていたけれど、それが自分の生きる力に繋がっていたように思う。わかりやすい反骨精神。
それが大きく変わったのは、高校卒業前に、仲間から無視された経験。しばらく学校を休んだものの、それでも行ってやる!という意気込みで学校に戻った。
けれど、想像以上にその経験は心に刻まれていたようで、高校卒業後に上京した後は、人付き合いが極端に怖くなった。憤りをぶつける先が外ではなく自分になってしまった。
18歳で歌手を目指して上京して、一時はCMの歌を歌わせてもらったり、芸能事務所からも契約の話もあって順調な数年だったけれど、
「自分がどんな歌を歌いたいのか」まだわからない頃に、次から次に降り掛かってくる色んな大人とのやり取りの中で、「期待に応える」ということをやり過ぎてしまって、心が壊れてしまった。22〜23歳の頃。歌をやめるしかなくなった。
なんで頑張れないのかと、自分を責め続けたけれど、今思うと(というかごくごく最近までずっと)「頑張れている時、集中力がすごい時、瞬発力が出ている時」が本当の自分で、そうでない時は怠けている、弱さが出ている、みたいに思っていたと思う。
私とスピリチュアル - 弱い自分をなんとかしようと渡り歩く
歌の活動と並行して、上京してすぐに同級生の勧めでとある宗教に入信する。(誰もが知っている、政治にも参加しているあの宗教)18歳の友人同士、向こうは恐る恐る始めて人への勧誘。私が「なんかサークルみたいで面白そうだね」といってすぐ入信したら、勧めて来た友人の方が目を丸くしてた。
そこから、活動をやりにやって、任される役職がどんどん増えていく。しまいには党首の専属ウグイスを務めて、数万の人の前での司会も経験。(連立を組んでいたため、「感動した!」等の言葉で有名なあの元首相や、最近不慮の事故で亡くなられたあの元首相にもその時にお会いした)
しかし、わーーーっと走ってはガツンと落ち込む自分、出来ていない時の自分を責める自分が際立ってきたのはやっぱり20代前半。「やれている時」の自分は受け入れて、「やれていない時」の自分は猛烈に責め続ける。苦しかった。
歌手活動でも、宗教活動でも、期待に応えて応えて応えて、そして美しい自分を求めて求めて、そうではない自分を痛めつけて責め続けて、先に書いたように心を病んでしまった。
その後、ヒーリングを学び、カラーセラピーを学び、インドのアシュラムへと修行に行き、その後もいくつかのスピリチュアルコミュニティを渡り歩く。
結局今振り返れば、生きづらさを変えたい=弱い自分を変えたい、色んなことに傷つきやすい自分を変えたい、そんな風に思ってやり続けていたと思う。
これだ!と思った「教え」「世界」を真っ直ぐにひたむきに探求すれば、それらを変えられると思っていたから。
少数派の人がスピリチュアルにいくのは危険
「少数派」というのは、例えば私自身は、去年ASDの友人から「〇〇ちゃんはADHD/ASD - 同じ感じがすごくする」という話を聞いて、え?と思って始めてそういう本を手に取った。
見れば見るほど、これは・・・自分だ、と驚いた。父は完全にADHDそのものだし、私はその要素もありつつASD的な部分も混ざっている感じがする。特にASD女性は、生きるために人(普通に出来ている人や、褒められている人)の真似をすることが上手く、そうすることでASD要素が隠れて発見しづらいという。
HSPのことを書いている人も見て、それも診断してみたら100に近いスコアで、そういう「元々の性質」的なものに触れた時に、あぁ、自分が変えたいと思って来た部分は、ダメな私なのではなくて、性質だったんだと安堵した。
それでも、私自身はそうなのだけど、片付けられない、物を無くしてしまう、できる事とできない事の差が激しいとか、「一般的・普通」と言われるところからは大きく離れていた私は、毎日毎日母から「なんで〜できない?」「なんで〜しないの?」「いつになったら〜するの?」などなど、言われ続けてきた。
だから、自尊心がものすごく低い。どこかで自分で自分のことをずっと否定し続けている。生きる為に無意識的に誰かの期待に応えることが当たり前になってしまっている。自分を変え続けないと(普通にならないと)と常に自分に圧力をかけている。
それは、少なからず「少数派」と言われる人の多くが、(多かれ少なかれこういうものを抱えていない人はいないけれど)、特に強く抱えているものなんじゃないかと思う。「他人から認めてもらうこと、普通であること」が無意識に基準になり続けているから。
あらためて今、弱い自分、傷つきやすい自分、依存的な自分を直視してみると、そういう人がスピリチュアルな世界にいく危険を、今はすごく感じる。
自分が体験してきたこと
どこのスピリチュアルコミュニティでも、共通していたのは、中心にいる人たちは参加者に「継続させよう」という意図がある。(宗教でもコミュニティでも、それを維持する為に、ずっとお金を払い続けてもらいたい、ということでもある)
そこで使われるものは、「飴と鞭」であったり、他者との比較などを使って、本人を鼓舞したりする。ここを離れたらどれだけ人生が転落するかを直接もしくは間接的に聴かせ続ける。
参加者にとっては、一時的に仲間ができることは安心につながるけれど、真面目でいい人ほど、期待に応えて頑張り続けてしまう。そして少数派を生きている人は尚更、人からの承認に飢えているから、とんでもない力で頑張り続けてしまうのだと思う。ここが居場所だ、ようやく居場所が見つかったと思い込んでしまうのだ。
最初の宗教でも、かなり上の立場の人が突然いなくなったりする。最初はあれ?と思っていたけれど、自分に役職がついていくほどに事情がわかってくる。突然居なくなった人たちは、鬱になって倒れてしまっていたのだ。清純でいようとし過ぎて、限界が来て鬱になる。でもそういう事情は隠され続ける。
やればやるほど幸せになれるもの、中心の人であればあるほど幸せな状態であるもの、そういうものこそ真の宗教だと思っていた私は、「もうここには求めていたものは無いんだ」と、夜逃げして一方的に退会した。
その後のコミュニティでも、私はとんでもない爆発力で探求しては、そこから離れるということを繰り返してきた。その時生まれる渦は、どんでもないものだった。(集客など)けれど、続けるほど苦しくなっていき、やめるとまたどっぷり落ち込んだ。
そしてまた、このとんでもない極端な振り幅こそが生きづらさだと思って、またそれを変えられる「何か」を探す。その繰り返しだった。
弱いまま生きられる世界へ
去年、最後のコミュニティを抜けた後、斎藤学氏の「自分のために生きるということ」という本に出会い、衝撃を受けた。
「スピリチュアル」という世界を探求して、すごいものになろうとし続けた私は、ただただ「耐え難い寂しさ」を抱えていたのだと、唖然とした。私は耐え難い寂しさを抱えて、パートナーに依存し、自分で自分を愛するなんて程遠いところにいたのだと。
それでも私は、盲目的なスピリチュアル信仰からはっと目が覚めて、私は普通の平凡な人間としてようやくぽつんとそこに立てた。コミュニティに所属せずに、安心して日々を送れたのは始めての経験だった。
それでもその後、また美しい世界に行きたくなってパニック再発という体験があったけれど、少しずつ、私はどんな世界を生きたいのかが見えて来たように思う。
スピリチュアリティというと、社会の枠組みや常識から出られるような印象を持っていたけれど、結局、覚醒するとか、なにか見えないものが見えるとか、高次元だとか、そういうところを目標にしてしまっては、結局社会のパワーゲームと同じ世界を生きることになる。
そして、美しいものになろうなろうと、自分の怒りや悲しみや苦しみに蓋をしてしたり、それらを無くそうとすることこそ、生きづらさの元だったんだと、今回の経験から感じている。闇に見える要素を過剰に忌み嫌い、光に見える要素を過剰に求める、それこそが生きづらさの原因だったんだと。
これまで経験したコミュニティは、そのコミュニティにとっての「正解」みたいなものがあって、それができていないと居づらくなったりする。でも離れたら「何か悪いこと」が起きるような示唆をされたりする。
もう、そんなものはうんざりだ。
「何かをしていないと愛されない、存在できない」そんな世界ではなく、「普通でないと居られない」世界でもなく、少数派でも多数派でもなんでも、それぞれの普通があって、違いを楽しめて、○でも□でも△でもいいよね、という世界を生きたい。強かったり弱かったり、色んな面を興味深く楽しめたらいい。
そんな、弱いまま生きられる優しい世界になっていくことを願って、まずは私自身の光も闇も好奇心をもって面白がりながら、本当は分かれてはいないのだということを、少しずつ体験していきたい。そして、これまでの体験をもとに、そんなくつろげる場をいずれつくっていけたらなと思う。
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