さとうなつみ「忘れること残すこと」(龍山滞在まとめ)
私はいま「人が祈る場所」を描き溜めていて、その延長線上この龍山の民話やそれに登場する石仏を訪ねることを目的としていた。山・川・海の猟師さん、御住職、宮司さん、惣菜屋のお母さんたち、床屋さんのご夫婦、林業の方などそれぞれ違った出会い方を日々重ねながらお話しをした。日が暮れないうちに教えてもらった場所でスケッチし、辺りがすっかり暗くなった頃に天島邸(ホストさんの住まいで私の寝泊り場所でもあった)へ戻ると、この日あった出来事を忘れまいと自分の日記帳にどっと書き連ねる。1日6ページ分くらいは書いていた。このマイクロ・アート・ワーケーションでは毎日noteを書く決まりになっていたけれど、つらつらと日記の全貌を描くわけにもいかないので、noteはそこから一部抜粋してスケッチと一緒に投稿していた。
今回は画像が殆どない割に文章も長くなってしまったので、既にこの辺りでパッとしないなと感じる方は飛ばして後半の方だけでも読んでいただけたら幸いである。
龍山では先述の通り毎朝9時頃から17時頃まで車で彼方此方を尋ね、天島邸へ帰宅するとその日あったことをぶわっとペンで書き連ねる日々だった。スケッチを描き直したりした後、画に関連する部分をピックアップして記事を打ち込む。それが済むと急いでシャワーをぱっぱと浴び布団の中に倒れ込むのが丑三つ時。毎日そんな感じであっという間に過ぎていった。
龍山から自宅へ帰ってきて二週間が経つ。その中でどれだけのことをいったい今覚えているだろう。龍山のことを思い浮かべて一番はじめに思い出すのは山の気配とあの夜の暗闇かもしれない。
初めて天島邸に到着した晩に見た上弦の月は、最終日の夜には丁度満月になっていた。天竜川を挟んで南北に連なる山々に囲まれた場所。谷間の夜は長い。日照時間が短くて17時頃には辺りが真っ暗になっていた。天島邸の近くには今も人が住んでいる家はなく、外灯もない。夜の暗闇が自分の日常の数倍濃く感じていたのを思い出す。夜は人間より山と動物たちの時間なのだ。時々車へ荷物を取りに行こうと玄関から出ていくと、驚いた鹿たちが暗闇の中で大きく鳴き叫んで山奥へ逃げていく。流石に初日は私も彼等のその声に驚いた。天島邸の家の窓のすぐ側まで動物達がやってきてカサカサと音を立てていた。
私は学生の頃からよく一人で出歩いては山や海の近くに泊めてもらっていた。山奥の村の一番端のお家や、とうもろこし畑がずっと続く平地の中のお家、りんごの木と丘の間の道を降った山の中腹に立つお家、もう虫や小さな動物くらいしか使っていない古い家屋の広い仏間の横でも、男女共用のドミトリーでも小屋でも知らない村のなんかヘンな蚊帳の中でも、運転手が運転しながら爆音でカラオケを熱唱している夜行バスの中でも寝られないことはない私だったが、ここでは初日になんとなく眠れなくなるくらいには夜の空気が深い場所だった。
龍山に暮らす人々の背景には、必ず山がある。出会った人を思い出す時はその人の顔と一緒に必ず山の気配が浮かんでくるのだ。
滞在初日に長谷山くんが案内したくれたのは「僕が思うに龍山で一番見晴らしがいいお宅」という“ねえぼ”さん宅だった。南を向いて左右に山脈が続く。天竜川のほうへ向かう急斜面に茶畑が続いていくのを眼下に見下ろす。車が私たち2人を重たそうに登ってくれたこの急激な山の坂を“ねえぼ”さんは子供の頃、川沿いの小学校目がけて駆け下りて行ったという。今使えるような車道も作られていなかった頃、あったのは川沿いの152号線だけで、その昔林業で木材の搬出に使われていた木馬道に沿って山道を降りて行ったそうだ。反対の山の中腹には所々緑がポッカリと剥げているところが見えるが、そこに人が家を建てて暮らしているのだ。自分の脚で山を登り降りするのが当たり前のことだったという人々は山の空気を背負っているように見えた。
日中の山はその大きな体に音を吸収していくかのように静かだった。間伐によって差し込む陽の光が水玉模様になって長い針葉樹の幹に降り注いでいた。夜は音にならない音を出して、(もちろん実際鹿や猿など動物達はカサカサと音を立てながら元気にしている)体の中の冷気を空中に放つような山の呼吸があって、龍山の人々はそんな山の呼吸と一緒にあの土地で暮らしていた。一方普段私の住む自宅の周りは街中ではないにしろ大概外灯や店の看板、車のライトがあるので夜でも明るい。南極や北極でもない限り地球上どこに居ても太陽が東から西へゆっくりと動きいて白い月が登ってくるのは同じはずなのに、それをあらためて実感することは少ない気がする。だから滞在1日目の日記には「あぁ、空の下で、山と川のあいだに、人がいるなぁ。」なんて書いていた。自分の身体とその周りを取り巻く自然の距離が近くて、当たり前のことを素直に感じられる場所だ。龍山は人口500人程の町だ。人よりも鹿の数の方が多いかもしれないよ」と笑って言われたけれど、龍山にはそれくらいの静けさがある。
私は話すのが得意ではない。自己紹介も苦手だ。滞在の前に参加アーティスト含めた顔合わせのzoomミーティングがあったが、それに参加された方々はお分かりだと思う。(ただこうした滞在先では自然とお話が広がっていくのは自分でも不思議)
今回滞在するにあたって自己紹介代わりにと、普段のスケッチからポストカードを刷って持ってくことにした。静岡県東部の巡礼道のスケッチと植物の二種類をお相手の方になんとなく合わせて選び、お会いする方全てにお渡しした。こういったものを描いていて…とそれを渡すと、「あぁそれならここから歩いてすぐ300mくらい先のところにお地蔵さんがこんなして集まったようなとこがあるよ」とか「それなら◯◯さん家よ!あんたのとこの八幡さんのとこにいくらか集まってるじゃない」「152号線ここから下って森林組合のところを右に曲がってさ」など次々と教えてくださる。この一気にくる情報量の多さに驚いた。中には偶然お会いした方でもそこから車で案内してくださることまであった。こういった突然の出来事に旅を感じる。
私の場合話すより絵を見てもらった方が早かった。自分には言葉の代わりに絵があるんだと改めて感じる機会だった。枚数は多くないにしろ、毎日描いたスケッチは最終日に協働センターの方々へ滞在報告する際お見せすることにした。道端で描いていると、場所によっては町の人が通りかかり少し警戒するようにしつつ声をかけてくださる。(平均年齢が70歳ほどなので30の私がそんなところにいれば当然目立つ)そういった時に私こういう人間でここに来ています、とお渡しすると言葉で説明するより早かった。これは海外でも通じると思っているので近いうち必ず役立てようと思う。
また今回のホストであるのぞみさんの存在も大きかった。彼女は龍山出身で現在は東京と龍山を行き来して音楽活動をされている。会う人会う人、のぞみさんの名前を口にすると「あぁ、のんちゃんのとこね」と落ち着く。民話に詳しい人ならあの人、植物ならあの人、山のことならこの人、と連絡をとっていただき一緒にお宅へお邪魔した日もあった。のぞみさんの細かな連絡のお陰で急遽猟師さんを訪ねることが出来たのも本当にありがたいことだった。みつさんはこの時期毎日のように山へ狩りに出かけるので特に忙しく、タイミングが合わなければみつさんにも山の鹿にも会えなかった。
さて私がこの龍山で見たかったこと、知りたかったことは、この土地の民話とそこの関連する石仏等の場所だとお伝えしていた。あらかじめ「たつやまの民話」という二本松先生が書かれた本を読んで行ったのだが、そこに書かれていないお話も現地では次々と出てきた。日々訪れたい場所のリストが増えていったので回りきることは到底出来なかった。一週間というのは短すぎる。マイクロ・アート・ワーケーションなのだからその言葉の通りそれでいいのかもしれないが、この一週間というのは龍山への挨拶期間のようなものだと捉えたい。龍山の入口がやっと少し見えてきた気がする。ここに詳細は書かないけれど、山いきのみなさん長谷山くん千陽さんのぞみさん、今後もよろしくお願いいたします。
この滞在はリスケによって実現されたもので、本来のスケジュールであれば”ひでさ”さんという、とてつもなく民話等に詳しい不思議な方にお会いできるはずだった。天島邸のリビングにひでささんが作ったと思われる資料が置かれていて、その量は写真が殆どであったがざっと目を通すのにも少し時間がかかる程の量だった。次回滞在する歳はこのひでささんと一緒にお話を聞きながら歩けることを期待している。
のぞみさんが案内してくれた日に立ち寄った椎茸栽培用ハウスの裏に石仏と祠が集められていたのを見つけた。「あ、そんなところにも。」とのぞみさん。
その土地の人にとってはそれくらいの認識のものなのかもしれない。日常の風景の中で当たり前すぎてわざわざ目に付かないもの。それがないからといって普段の生活に影響ことがあるわけでもないのだから。でもそういったその土地の当たり前に反応できるのがよそ者である私だ。
石仏等は車道ではなく昔人が歩いていた街道、古道沿いにある。だいたいその道を使っていた人たちが作り祈ってきた場所だから、古道が緑に埋もれていくのと一緒に石仏も埋もれていくのだ。
そこを歩く人がいなければその道が草に覆われて消えていくのは自然なことだ。山には生きた時間が流れているから当然のことで、それは人の祈る場(ここの場合=石仏)にも同じことが言える。
山に詳しいOさんにある場所を車で案内してもらっている時のこと。沢沿いにあるその前を通った時Oさんは「あ、花が」と呟いた。聞くと、今まではお供えの花が絶えなかったのだけれど、ここ最近花が変えられていないのが気になると言った。もしかするとご年配の方が世話されていて、何かしらの理由で来られなくなっているのかもしれないと。そう話してOさんは新しい樒を供えて手を合わせた。手を合わせて祈ってきた人と祈られてきたいつかの人、そしてそれを見ている人。それぞれのとても個人的な思いが交錯する場所が山の中に静かに存在している。石仏は山の中にあるように見えても、本当はそこに訪れる人々の中に存在するものなのだと思う。だからわざわざ意識しなければ日常の景色の中にそれがあっても見えていなかったりするのだ。最終日の総代や宮大工さん等も集まっていただいた懇親会では、どの祠を誰が作ったとかお世話しているとかそんな話まで耳にした。祠の前には”勢”の青いラベルのカップ酒がお供えしてあったり、まだその場所に今も関わりを持つ人がいる。とても個人的なことだからこれをわざわざ表立ってどうこうということではない。けれどこういった場所が、道のようにいつか時間と共に見えなくなっていくだろうということは想像に難くない。それでいいという見方もあるかもしれないけれど、民話も同じく誰かがわざわざ残そうとしなければなかったことになってしまうかもしれない。民話は人と土地を繋ぐ財産だ。いつか埋もれてしまう前に、そういう人々の思いが集まる場所があったのだということを残しておくくらいは許されるのではないかという思いでいる。
慌ただしく過ぎていった6日間。曇りが一日程であとはほとんど秋晴れの毎日、凪いだ時には天竜川に山が映っているのがしっかり見えた。リスケで同時滞在の本原さんと雄大さんにお会いできなかったのは残念だったが、自分の性格や興味の対象とこの龍山の土地はたぶん相性がよくて、いいご縁に恵まれたと思う。その日のうちのインプットとアウトプットの繰り返しはバタバタしながらも自分にはいいトレーニングになっていて、精神的にかなり健康だった。インプットしたものは溜め込むとよくない。
こちらへ持ち帰ってきたものを整理する時間もないままこの記事を書くことになってしまったが、次の滞在の準備もしたい。
リスケされる直前まで行けない可能性もあったけれど滞在が叶って本当に良かった。
のぞみさん、長谷山くん、千陽さん、佐奈さん、大野さん、みつさん、内山さん、お名前を上げてもきりがありませんが、お世話になりました。そしてこの機会をいただいたアーツカウンシルの皆様、ありがとうございました。
もしこの長い文章をここまで読んでくれた方がいたら、ありがとうございます。
◯今回の滞在のスケッチや、今後また一緒に活動できた際の詳細などこちらにあげていこうと思っています。
https://www.instagram.com/natsumisato.1992/