忘れられた言葉はいずれ死んでしまう
たとえそれが大きなことでも小さなことでも構わない。己の心を信用し、自分が大切だと思うことをやりなさい。
最近読んだ短編の中にそんな内容の台詞があった。少し言い方を変えれば「自分にできると思ったことを真心込めてやりなさい」という意味にも繋がっている。
自分にできることを探すとき、わたしはいつも「自分にできないこと」から逆に考えた。少し後ろ向きな方法ではあると思う。
例として真っ先に思いつくのは社交的な人付き合い。決して愛想や人当たりが悪いわけではないのだけれど、わたしは社交辞令も大所帯もちょっと苦手だ。
それなら自分は人との関わりにおいて、何ならば“まだ”できるのだろう。大所帯じゃなくせめて1対1の関係の中で何を大事にしていこう。そんなふうに「自分にできない社交的な人付き合い」のランクを下げて、その中から自分にもできることを見つけている。
ここでそれらを具体的に書くとして「そんなのできて当たり前だ」と思われそうな、本当に些細なことばかり。
例えばどんなに急いでいても、レジ係の人には必ず「お願いします」と「ありがとうございます」をきちんと言う。できれば目を見て。
謝るときの第一声では「コレコレコーユー理由があってやっちゃいました」みたいな言い訳がましいことは言わない。聞かれてから話せば良い、何よりまずは「ごめんなさい」。
誰かにモノを頼む前には「今良いですか?」と相手の都合を確認してから要件を述べる。などなど。
そしてこういう些細な言葉にきちんと心を込めていくのを日々意識して人と関わるようにしている。まるで置き手紙のようにさらっと言えるのも素敵だけど、わたしの場合は“言った”という記憶が自分の中にもしっかりと残るように。
話し手や書き手自身が放ったことを覚えていない言葉の価値は少しばかり下がるだろうと思うから。「人が死ぬのは誰かに忘れ去られたときだ」という死生観もあるように、死にかけの言葉を届けたって意味がない。
己の心を信用し、自分が大切だと思うことをやっていく。たとえそれが大なり小なり何であれ。
場を盛り上げる気の利いたことは言えないけれど、わたしはわたしが言える言葉を大切に。大切だと思う言葉を大切に。当たり前の言葉だからこそ大切に。そういう人でありたいね。
にしても、例の主人公の言葉は物語の山場で言われた決め台詞でも何でもない。それでも1番わたしの記憶に残っているから、きっと彼女も造作もない日常の中、真心込めて言ったんだろう。どうかいつまでもその言葉を忘れないで。
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