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寛容と利他のあるべき姿

「優しさ」と「甘やかし」は違うし、「思いやり」と「我慢」も違う。

 ハタチになってようやく2年を迎えるばかりの若輩者だが、わたしはわたしが『20代で得た知見』を問われた場合、ひとつ目にこれを挙げるだろう。
 君が好きだから優しくしたい、君が好きだから思いやる。そう言いながら、静かに自分を消耗していた恋がある。

「好きってなに」かを間違えた。

 当時のわたしにとっての “好き” とは、相手に対してただ寛容で利他的でいることだった。そうありたいと願えることこそ、それが愛だと思っていたのかもしれない。

 だが「優しさ」には限度がある。寛容になって構わないこと/問題あること、その区別。
「私だったら好きな相手にその対応はできません」と思う場合は許さない。許した後に悶々しそうな話はハナから許さない。
 総じて、相手がわたしに対して利己的なときは許さない。「利己的な愛は不純なものだ」と、少なくともどこかの辞書は言っていた。

 一方で「思いやり」には限度というより境目がある。相手の気持ちを考えるのは大切だけど、だからといって「自分の気持ちは忘れなさい」なわけじゃない。
 きっと困らせてしまうから、と相手の事情を思うがあまりに嘘を言うのはやめましょう。逆の立場で、愛する人がわたしのために豊かな心を押し込めるのは見ていて嬉しいものじゃない。

 寛容のあまり、本来許すべからずなことを許してしまえば、その心持ちは「優しさ」ではなく「甘やかし」。
 利他のあまりに自分が苦しくなってしまえば、その精神は「思いやり」ではなく「我慢」。

 某年、秋と冬との狭間に得た知見。


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