「やっぱりわたしは文章なんだ」と実感する
「言葉で言い表せないもの」はたくさんあるんだと思う。だけどわたしは自分が伝えたいことを、たぶん言葉でしか言い表せない人間だ。
そう悟ってからもう3ヶ月も経つらしい。相も変わらず、わたしはやはり頭の中に浮かんだモノを表現するなら圧倒的に「言葉」である。文章として書くのが1番合っているなとつくづく思う。
絵を描くのも曲を作るのもダメだった。模写は人様にお披露目できる腕前だけど、イチから自分の絵は描けない。既存の曲を音楽ソフトで再現できてもオリジナル曲は作れない。
これに関して、わたしは自分が「文章以外で表現するのは得意じゃない」な人間なんだと思っていた。苦手なんだと、数日前まで思っていた。
だけどほんとのところは違う。わたしはたぶん、絵も音楽も得意/苦手の域ではなくて、「別にそこまで熱を入れようとしないだけ」だ。
ここしばらくハマっていた動画制作、そしてつい先日「久々におえかきしよ」と気分が向いて描いたイラスト。この2つがきっかけとなり、わたしが言葉を自己表現の手段に選ぶ、新たな理由に気がついた。
ただ単純に、ほかの手段は「こだわることが面倒だ」と思ってしまう。
絵なら微妙な色彩調整で光と影を表現するのがめんどくさい。作曲ならいろんな楽器で細かいアレンジをつけていくのがめんどくさい。動画制作はMMDしかやっていないが、それでもエフェクターやら何やらで粋な演出を加えるのがめんどくさい。
※ MMD:3DCG動画作成ソフト。キャラクターの3Dモデルにモーションを読み込ませることで、歌って踊る推しの動画を作成できる。「推しがすでに美しいから別になくても良いのでは?」という理屈で演出をサボる橘。
つまり「細かいとこまできちんと凝って表現したい!」といった思いが絶望的に欠落している。仮に思いはあったとしても、実現のために果てない労力を費やす覚悟が足りていない。
だけど言葉と文章だけはそうじゃなかった。
書き出し文になかなか納得できなかったら、小一時間が経ってもずっと白紙のまんまで悩み続ける。「今書きたいのはこんなモンか?」と中盤あたりで疑問に思えば即デリートで白紙に戻す。
音声として読んだ場合の語感の良さや、よりふさわしい比喩表現とか、読んでる側は大して気にしていないところも。
noteだろうが原稿だろうが、わたし自身しか読むことのない小説だろうと、自分が納得するまでひたすら悩み続ける、悩めてしまう。
だからわたしは文章なんだと。
こんなにも向き合いたい「言葉」であるから、それを自分の表現手段に選んだんだと今は思う。決して「ほかの手段じゃできないから」みたいな消去法の結果ではなく。
あまりにこだわりすぎるおかげで超難産になる日も少なくないけれど、それでもやっぱり書くのが好きだ。
言葉だからこそ言い表したい、表現したい。いろんな手段に寄り道しつつも、「やっぱりわたしは文章なんだ」と実感する。
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