存在証明と生き抜く術としてのベンチプレス
なぜ身体を鍛えるのか?もはやこんな感じの問いかけをしてくれる人は周りにいなくなってしまったのだが、僕の中では身体を鍛えるという行為は己の意思確認とそれを見失わないための術になっている。自分に負荷を与えてそれを乗り越えるには意思のチカラが必要不可欠だし、それを忘れてしまったらただ周りに流されるだけの存在になってしまうのだと思う。ゆえに僕にとってのベンチプレスは存在証明と生き抜く術ということだ。
多数派に対する圧倒的な違和感
子供のときから大人数で何かをすることに気持ち悪さを感じてしまう。分かりやすい例をいうとドッジボールだ。僕の小学生時代はドッジボールをやるというと教室に謎の熱気が生まれ、みんなが校庭に向かって走っていったものだ。僕はあの熱気が堪らなく嫌いで毎回吐き気を催していた。そんな感じで、運動会や学園祭など様々なそれ系のイベントには一向に楽しみを見出せないまま大人になり、ずっとそのような場を避けてきたのだがある日事件が起こった。その当時付き合っていた彼女に、とある有名アーティストのライブに誘われてしまう。僕をずっと苦しめてきた、あの謎の熱気が必ずそこにあることが予想できたので当然最初は断ったのだが・・・それが原因で相手の機嫌を損ねてしまい、いろいろとめんどくさくなった僕は考えることをやめて一緒にライブにいくことを承諾してしまった。あの空間は思い出すのも恐ろしいものだった。みんながタオルを振り回し盛り上がっている中で憂鬱になっている自分がいる、周りの全員が自分とは違うナニカに見える。少数派の自分が壊れそうになりながらも、そのとき自分はコレと戦うことを心に誓った。