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自分の居場所は叫ばなければ気付かれない。

できたら大きな声で。

小さな声しか出せなかったとしたら
数を打つのだよ。


自分の居場所は叫ばなければ気付かれない。

夢とか野望だと
とても大それたことに感じるけれど
それは夕飯も同じ。

コロッケを食べたいのなら
自分で手に入れるしかない。
作るしかない。


家族に作ってもらうとしたら
作ってくれる人に
「コロッケが食べたい」旨を
伝えなければ確実性に欠ける。

外食であっても同じく
「コロッケが食べたい」と意思を表さないと
コロッケにはありつけない。
「なんでもいいよ」なんて言って
コロッケは出てきてくれない。


気づいてもらうしかない。

さらに言うと
「コロッケが食べたい」と
ひとりごとを言ってもしょうがない。

相手に伝わらなければ。
こちらを向いてちゃんと目は合っているのか。
こちらの要望を聞き入れてもらえる体制に
相手は、なっているだろうか。

距離が遠いなら大きな声で。

それでも聞こえてないようなら
肩を叩いて。

そうして伝わっても
そこはパンドラの箱。
シュレディンガーのコロッケ。

相手が果たして
乗ってきてくれるのか。
はたまた新しい案を提示されるのか。

その人が乗ってこなくても
また新しいコロッケ仲間を探せばいい。
コロッケを食べたいなら。

コロッケの機会を奪わないこと。

その主張すら「勝手な憶測」で
こわがって引っ込めてしまうことって
結構あると思う。

この人、揚げ物とかダメそうだしな。
また今度でいいや。
とか
作るのめんどくさいから
やる気のある時に。
とかとか。

でも意外に、
相手もコロッケを食べたかったりする。
それが人生なのかも。

私はコロッケが食べたい。

なにが言いたかったかというと
きっとわたしは今すごく
コロッケが食べたいんだと思う。

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