神戸・六甲の街にサヨナラを
この10年の間に、あらゆる土地に住んできた。実家で生活していた10年前には全く想像していなかったことだ。
しかしあちこち転々としているという経歴ゆえに、他者からはどうも ”フットワークの軽い人” に見られがちだ。そう見られれば見られるほど、自分自信とのギャップを感じる。普段の私はというと、フットワークは激重だし、出不精だし、お陰で体重は増えるし(どうでも良い)。環境の変化とかも本当はあまり得意ではない。新しい環境に馴染むのにも、かなりの時間とエネルギーを要する。
だが、この度また県を跨いで引越しをすることになっている。さすがに、もうしばらくは引越したくない。
引越しまで残り数日に迫り、引越し準備を進めている。残り僅かな時間を過ごすとこの場所ともオサラバなのだなぁと思うと、ほんの少しだけ寂しさを感じる。
しかし正直ここを離れる実感があまりない。「ここにはもう滅多に来られなくなるのだよ」「今しかここに居られないのだよ」と自分に言い聞かせるように、近所の行く先々でカメラのシャッターを切り、毎朝せっせと川沿いを散歩する。
どうも私は、感傷的にならない自分が変だと思っている節があるらしい。自分の感じる力が足りないのではないかと思ってしまうのだ。いや、自分の感情を捻じ曲げる方がおかしいよな。
今の住まいに来る前、約4年半住んだ東京から引越しをする時、東京から離れるのがとてつもなく辛くなった。これには自分でも驚いた。満員電車に苛立つ自分と向き合わざるを得ない東京砂漠など、こちらからとっとと離れてやろうじゃないかと勇んでいたからだ。私は自分の人生を変化させようとし、今選択した方が良いことを選択しようと前だけを向いて歩いていた。
転職が決まり、退職日が決まり、配属先が決まり、急いで家を探しに行き、そうこうしている内に引越しまで時間がなくなり、東京に住む友人・親戚に入れ代わり立ち代わり引越し準備を手伝ってもらった。偶々東京に来ていた仙台の友達までもが、梱包作業を手伝ってくれた。もはや自分で梱包した段ボールは殆ど無かったくらいだ。
来てくれる人たちと毎日のように食事を共にし、有難いことに別れを惜しんでもらっている内に、自分もなんだか寂しさが込み上げてきた。「あぁ、この大切な人たちが誰も居ない土地に、自分は行くのだなぁ。」と、それまで気づかなかった事実を実感せざるを得なかった。東京に居ても、仕事以外はひとりで過ごす時間が圧倒的に多かったので、こんなに自分が寂しさを感じるとは思っていなかった。
今の家に引越してきてからは感傷に浸っている暇などなく、やるべきことがめまぐるしく襲ってきた。新しい環境に慣れることに必死だった。だけど、新しい環境に身を置いてみるまで自分が環境に慣れるのが遅いことをすっかり忘れていたので、毎日毎日HPを減らしながら、時折寂しさを感じて半ベソをかいていた。
思い返せば、実家から出て大学に通い始めた時には、慣れない辛さを感じたのは1ヵ月くらいなものだった。
大学のある京都のマンションに入居する時、両親がついてきてくれて、荷物も父の車で搬入した。大学生活初日、入学式とガイダンスを終えて新居に帰宅すると、両親が置き手紙と買ってきたパンを残してくれており、手紙を読みつつパンを食べながら、気づくと涙していた。高校生の時は一日でも早く離れたいと思っていた親元。実家から離れる寂しさよりも、大学生活へのワクワクが勝っていたけれど、本当に親と離れて一人暮らしをするのか‥‥と実感した。
1ヶ月もすれば、仲良くなりたいなと思える友達もできた。幸いにも、一緒にものづくりをできる環境だったからだろう。すっかり親と離れた寂しさも忘れ、地元の高校生活では決してできなかったことを好きなだけできる時間を楽しんでいた。
それから4年の時を過ごし、京都という街は酸いも甘いも経験させてくれた。一言で「好き」とは言い難い。だけど、自分にとってはかけがえのない場所だ。
卒業を機に東京に引越す人が多かったが、一度東京を経験してから京都に来ていた人生の先輩達は、「京都は最高だ」「東京に行く必要があるのか?」というようなことを口々に言っていた。京都は素敵で住みやすい街だと感じていたし、東京の一極集中が本当に良いことなのか、ただその社会システムに迎合しているだけではないのか、というような疑念を頭では何となく感じていたが、その思考の輪郭は私の中で当時まだぼんやりしていたように思う。実感を伴っておらず、誰かの意見を自分の意見にすり替えているだけのような、そんな感覚だったから、自信がなかった。
そんなわけで、京都から東京に引越した。友人達もほとんどが東京に引越すこともあり、この時もあまり寂しさはなかった。
4年間お世話になった京都。飽き性の私は、引越す頃には正直京都に飽きていた。違う場所に行きたいと思っていた。それは田舎に似た何かを感じていたからかもしれない(京都は決して田舎ではないのだが)。狭い世界に身を置いて、プライバシーも何もないような世界。しがらみ。ここではないどこかに行けば、この息苦しさから脱せるかもしれないと考えていたのだろう。つまりそれは京都に飽きていたのではなく、大学生活から脱出したかったということなのだ。中学や高校の「3年間」や、大学の「4年間」という設定はよくできているのかもしれない。
実家を出る時も、京都を去る時も、東京を離れる時も、いつだってその場所から早く離れたいと思っていた。だけど今、何故かこの六甲に対しては、早く離れたいとも離れたくないとも思わない。感傷的にならないし、嫌気も刺していない。
無職の期間――人と直接の関わりのない期間――をこの街で数か月過ごしたからかもしれない。仕事を辞めたのは痛手もあったが、そのお陰で仕事と街の記憶がセットにならずに済んでいる。縁もゆかりもなく、仕事の為だけにやって来た六甲。はじめは何故こんな場所にノコノコやって来てしまったのだと思っていた。だけど、今や生活する街として私の中に存在している。
もちろんこの街には仕事の思い出もある。良い思い出も辛い思い出も。でも仕事の思い出は職場だけに留まっている感じがする。
仕事が辛かった時、帰宅途中で公園に寄り、フリーズした頭と興奮状態の身体をクールダウンしてから帰っていた。だだっ広い空間でぼーっとしながら、ただ息を吸って吐きながら、同じように夜の公園に居る人を眺めて、夜に溶けてしまいたいなぁと思っていた。このまま夜が引き延ばされていって、朝がやって来ないことを願ってみたりして、それでも変わらず朝が来ることはわかっているから軽く絶望した。
だけどその辛かったことを凌駕できるくらい、その後の無職の時間を使って自分を立て直し、癒しの場所・生活の場所としてしっかり味わい認識することができたみたいだ。
社会人と言われる年齢でありながら、仕事をしていない、生産的でないというのは社会的にはよろしくないことだろうけど、それはそれは贅沢な時間だった。金銭的にも、もう二度とこのような時間は訪れないことを願うけれど、でも本当はこの時間がずっと続けばいいのにと思うくらい貴重で、なくてはならない時間だった。
この時間を私は最大限、有効活用できたのだろうか。それはわからない。無駄な時間だったかもしれない。だけど、そんな無駄は愛おしいなぁと思う。
マッハで生産していた時も、ぶっ壊れた時も、無駄を過ごしていた時も、この街はただその営みを見ていただけだった。寄り添い過ぎることもなく、突き放すこともなく、人間が勝手に苦しんだり楽しんだりしているだけだ。
ただそこに場所があった。私はその場所に居座らせてもらえたことに、充分感謝を告げてから、この街を去ろうと思う。
神戸・六甲 写真館
この地を去るまでに撮った写真は、随時更新するつもりです。
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