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令和の今オスカル様に再会できて嬉しい
嬉しい、とても嬉しい。
映画『ベルサイユのばら』を見ました。予告編を見て「えっ、あの長い話を2時間で……!? 尺が足りん」と色々危惧しながら「まあ見ないことには文句も言えないからな」って感じで見に行ったのですが、個人的にはとてもよかった。良かったです。
以下ベルばらに対するさまざまな感情と感想。対戦よろしくお願いします。
結構長くなってしまったので、映画の感想だけなら後半だけで大丈夫です。
母に英才教育を受けたヲタク
母よ私に原作8巻を読ませてください
まずは私のベルばら歴を開示しておかないとお話にならないので手札をドローします。
初見はNHKBS衛星アニメ劇場で幼少期に放映されていたアニメの再放送でした。ベルばらは結構アニメ化されているのですが一番有名なやつ、OPで「薔薇は美しく散る」が流れるやつです。
原作と比べて劇画タッチで小学校低学年くらいの女児が見るにはちょっと濃い作品なのだが、我が家ではそれが他のアニメや番組より優先され垂れ流されていた。何故かというと、うちの母が熱狂的なベルばらファンだったからである。
連載現役世代の母、もちろん原作は単行本で全て揃えていたもののオスカル様が死ぬクライマックスの8巻を母親(つまり私の祖母)に捨てられ未だにその話をする母。私が訳もわからず「く~さ~むら~に~」とオープニングが流れるのを見ているしかなかったのは、母が他のチャンネルに変えることを許さなかったからだ。強制英才教育。マジの女児だった私には当然フランス革命だの自由平等博愛だの理解ができなかったため、当時の放送は何となくで視聴していた。それでも何となく最後まで見ると「あ、オスカル様(自然と様付けになった)って死んじゃうんだ……」だったし、主人公が死ぬ作品というものにそれまで触れたことがなかったので、その初見はなかなか強烈な印象を残した。アンドレが先に死んだのも衝撃だった。昭和の作品、容赦がない。
そんなこんなでなんとなくのストーリーを追っていた私だったが、小学校高学年になった頃実家に帰ったタイミングで母は昔自分が買い集めた原作を取り出してきた。そう、祖母に捨てられたために8巻のない原作単行本である。
ベルばら原作単行本は全10巻。母が「おかしいな1巻もない……」と言いながら押入れから出してきた単行本は2~7巻と9、10巻のみである。一番いいところがない。しかし私がヲタクであるならば母も須らくヲタクである。とにかく読んでほしかったのだろう。小学六年生の私の手には、歯抜けの原作が押し付けられた。まあ幸いアニメは履修しているので登場人物は大体わかるしいいだろう。
そういうわけで、その年の夏休みは母が昔買い集めた漫画を祖母の家で読む日が続いた。『ベルばら』だけではない、三原順先生の『ルーとソロモン』や『はみだしっ子』の1,4巻(これも途中までしかなかった)、美内すずえ先生の『ガラスの仮面』の28巻(なぜこの巻しかないのだ)などなど、ヲタクの母が読んでいたものを娘の私も同じように読みふけった。カエルの子はカエルだった。なお「実家にあるから」と母が言っていたので、アニメで気になったから読めるかもと期待していた大和和紀先生の『はいからさんが通る』はなかったので泣いた。母も「絶対あったはずなのに」と泣いていた。
アニメのぼんやりとした記憶しかなく、時たま革命だの政治の難しい話が挟まってわからなくなっていた『ベルばら』も、そのときの私には流石に理解できるようになっていた。というよりも、歴史的な部分がかなりわかりやすかったので助かった。私の知っている少女漫画は当時の『りぼん』や『ちゃお』で連載されていたもので、基本は恋愛や将来の夢がテーマのものが殆ど。こんな風に歴史がモチーフの作品は「まんが偉人伝」みたいなものしか読んだことがない。当時のキラキラ作画の目は慣れないものだったが、ベルサイユで繰り広げられる政治劇、時代の渦に飲み込まれていくパリの街とオスカル様、アントワネット。何もかもが面白かった。
だがこんなに面白かったのに1巻と8巻がなかった。私はまた泣いた。仕方なく飛ばして9巻を読まなくてはならなかったので、知らぬ間にオスカル様が死んだままフランス王家が終焉を迎えた。読書体験としてあんまりにもすぎる。
あんまりにも過ぎたのだが、それでも感動した。感動に足る作品だった。アニメ版はオスカル様が死んだらそこからあとはアランによるナレーション解説である。激動のフランス革命を原作で初めてちゃんと浴びて、私はアントワネットに初めて同情した。世間一般のイメージと全然、違うじゃん……。
そうして気に入って繰り返し読んでいたので、祖母の家から帰るとき母が「持って帰ったらいいよ」と言ってくれた。祖母の家に置いておいても誰も読まないから、それなら持ち帰った方がいい。そういうわけで母が少女時代読んでいた『ベルサイユのばら』は我が家へとやってきた。しかし2巻は祖母の実家に置いて行った。天然痘で死ぬルイ15世の描写が怖すぎて家に置いておきたくなかったのだ。いやごめん、今読んでも怖いわ……怖くないですか?
家に持ち帰ってからも私は『ベルばら』を繰り返し読んだ。繰り返し読み、母に「頼むから8巻を読ませてください」と懇願して文庫版の該当巻を買ってもらった。そしてやっとオスカル様の最期を読んで泣いた。あとあると思わなかったのでアンドレとオスカル様のラブシーンにびっくりした。
母は英才教育の甲斐あって私がすっかり昭和の少女漫画を読むようになったことを喜び、図書館で山岸凉子先生の作品やガラスの仮面を借りてきて私に浴びせた。池田理代子先生の『栄光のナポレオン』もそのタイミングで読んで、「ロ”ザ”リ”ー”」になったりした。
高校生になって世界史を選択し、カタカナを覚えるのが苦手で挫折したのに、フランス革命の辺りだけ完璧だったのは『ベルばら』をはじめとした池田理代子先生の作品のおかげである。ちなみに奈良時代が完璧なのは山岸凉子先生の『日出処の天子』のおかげであるし、古文で『源氏物語』が出てきて無敵になっていたのは大和和紀先生の『あさきゆめみし』のおかげである。
原作懐古厨厄介ヲタクによる鑑賞前の懸念
そういうわけで母の英才教育でしっかり『ベルばら』履修済みの成人女性になっていた私が、再アニメ化の話を聞いたのは数年前のことである。
ちょうどその少し前、大和和紀先生の『はいからさんが通る』が原作完全劇場アニメ化をされたばかりで、昭和の名作がリメイクされる時代が来たか~と思った。そして『はいからさん』は旧アニメが打ち切りだったので喜ばしかった。「完結までやります!」を押し通せる人間が偉くなったんだなあと思うとちょっと嬉しかった。
しかし『ベルばら』劇場アニメ化が発表され、連載50周年を記念して旧アニメのセレクション版が再放送されているのを見ながら、正直私は再アニメ化に懐疑的であった。
だってこのイメージで定着しちゃってるじゃん……。
当然なのだが、こういう古いアニメがリメイクされる際はほとんどの場合、声優やスタッフが一新される。オリジナルのキャストさんが現役を退かれていたり、悲しいことだが亡くなっていることさえあるため仕方がない。最近放送された『らんま1/2』が例外すぎるのだ。
そして『ベルばら』のオスカル様と言えば田島令子氏である。アンドレと言えば志垣太郎氏であるし、OPでは「バラはバラは!」を連呼しなければならないし、EDでは「オスカーーーーール!」と絶叫してほしい。もっともあれは後半なくなったけれど。
劇画タッチとはいえ原作に近い時代柄、絵の雰囲気も近しかった旧アニメのイメージが先行している以上、最近のキラキラのキャラデザにされるのはちょっと抵抗がある。『はいからさん』はかなり出来が良く丁寧な仕上がりで原作愛にあふれており私はかなり満足したが、それでもキャラデザは現代風だった。
オスカル様が今風になるのは絶対嫌だ。オスカル様には池田理代子作画でいてほしい。オスカル様がジェンダーフリー女子みたいにされたら大暴れして映画館を破壊する。
だが私のこの主張は原作懐古厨厄介ヲタクによる面倒臭すぎる【お気持ち】としか言いようがない。なぜなら良い作品は無くなってはならないからだ。『ベルばら』はもう発行から長い年月が経っており、いかに上の世代に熱狂的なファンがいるとはいえ、時が無情に流れていく以上、新規人口が増えないジャンルは廃れていくしかないのだ。しかし『ベルサイユのばら』は決してそうなってはいけない作品だと思う。これからも読み継がれ、語り継がれていくべき名作なのだ。
だったら今、再度アニメ化することには大きな意味がある。
宝塚歌劇団による上映は続いているが、あれは敷居が高い。今の若い人たちが、子どもたちが触れるなら、アニメがいい。手軽に、新しく『ベルばら』を見てくれる人たちが増えるならそれで。
そういうわけで、私は一旦【お気持ち】は引っ込めることにした。新オスカル様が沢城みゆき氏であることを確認してちょっとホッとしたり、音楽担当の欄に澤野弘之氏の名前を見てテンション上がったり、予告編を見るにバスティーユ襲撃までやるはずだが二時間程度の上演時間であることに不安を覚えたりしたものの、見てもいないものに対して文句を言うほどアホなことはない。
そして来場者特典が池田理代子先生の複製原稿だったことが私の「見よう!」の気持ちを固めた。絶対欲しいじゃんそんなの。ほなら席を予約しましょうかね……となり、私は公開から2日目、新劇場版を見ることを決めた。
しかし弱いヲタクなので、公開初日にXでちょっとパブサした。まあ概ね共通していたのは尺が足りないという感想だったのだが、事前に宣伝された番組で「オスカルが新時代的な自由な女性」として紹介されたことへのクレームも散見されたし、劇場版でカットされた部分へのネガティブなツイと恐らく見てもいないだろうにそれに同調するツイが上の方に来ていて「oh……」となった。
とはいえ私は自ジャンルで善きヲタクたちが初日にネタバレを危惧して口を噤んだ結果、ネガキャンお気持ちツイの方が拡散されて悪いレッテルを貼られてしまったという非常に悲しく悔しい思いをしたことがあるためその8割は無視することにした。繰り返すが、見てもいないものに対して文句を言うほどアホなことはなく、ネガティブな意見ほど目につきやすいものもない。公開されたまだ1日で見た人間の母数も少ない、ネガティブな思いを抱いてしまった人はそれだけ期待値が高かったのだろうなと思うだけに留めた。悪いインターネットだ。パブサもエゴサもするもんじゃない、私が悪かった。
令和に蘇るオスカル様
そういうわけで、私は休日に早起きして映画館に来ていた。複製原稿が欲しくて劇場に行くので、終わっていたら死んでも死にきれない。だから早起きした。
ファーストデイなのもあって人が多い。物販を見たらまだ公開して2日目なのにオスカル様のアクスタだけ完売していて笑った。パンフ……はどうしようか迷って、見てから考えることにした。
入場して来場者特典をもらう。これが思ったよりでかい。一応A4サイズが入る鞄と念のためクリアファイルも持っていたのだが、それに入れてもはみ出る。封筒がでかい。しかしこのでかい封筒に池田理代子先生のお名前が入っているから良いのである。クリアファイルに入れ、鞄を横に寝かせて膝の上に置くことで折れを防止することにした。結果として綺麗に持って帰れたのでこれで正解だった。
劇場内はほぼ満席だった。年齢層も様々で、男性もまばらにいたがほぼ女性客だった。そりゃそうでしょうねという気持ちと、どんなもんかドキドキする気持ちで開演を待ち、そして私は満足して涙ぐみながら映画館を後にした。パンフも買った。箔押しキラキラ表紙で嬉しい。
以下項目ごとに分けた感想である。
オスカル様
オスカル様は令和になっても美しいオスカル様のままだった。
まず作画が限りなく池田理代子先生だった。勿論線が現代的にシャープになり、デジタル作画特有の滑らかな色彩にはなっていたが、それでも作画からは「原作のオスカル様のイメージを決して崩さない」という意気込みを感じられた。憂い眉、睫毛バシバシ、最高。
沢城みゆき氏の声に関しても、元々沢城氏はそれこそオスカル様的な凛々しい女性役が多かったため心配していなかったのだが、ときに柔らかくときに芯の通ったお声でとてもよかった。特に今回は原作や旧アニメのようなオスカル様の口の悪さがかなりナーフされていたので、「麗しいみんなの憧れのひと」としてはかなりぴったりだったように思う。原作と旧アニメのオスカル様は劇場版の五億倍口が悪く沸点が低く喧嘩っ早いです。
そういう荒々しい側面が薄めになっていたからか、個人的に好きな「アンドレ、G線が、G線が……」のシーン直前の「神よ御手を額に当てたまえちきしょう!」のブチギレや、婚約にキレて机ぶっ叩いて父上の頭にワインぶちまけるシーンなんかはなくなっていたけど、その分感情をあらわにして衛兵の隊士たちをビンタしたりアンドレの最期に「ばかやろう!」と叫ぶシーンがより感情がむき出しになった感じがして印象的だったかなと思う。段々と自己や自我が自由になっていくイメージ。
さらに旧アニメ版と比べて特に特徴的だったのは、「女であるのに男性として育てられた息苦しさや苦悩」に対する描写がかなり丁寧だった点。アントワネットが嫁入りしてくるシーンから映画が始まったので、ジャルジェ将軍が「お前は跡取り息子として育てる!」するオスカルの運命を決定づけるシーンやそれに伴い厳しい剣の稽古をするシーンが無かったけど、フェルゼンの前で男性としてい続けなくてはならなかった苦しさ、それなのに突然結婚するよう言い渡されることへの怒りや悲しみは、きちんと尺を割かれていた。私はオープニングの「操り人形」のシーンで「あっ、父親や家の事情で振り回される描写はちゃんとやるんだな」と思ったのだが、後半の「私は軍神マルスの子として生きましょう」と父と対話した後の歌唱シーンが本当によかった。糸の切れた人形の姿で歩いていたボロボロのオスカルが、自分の意志でこれまでの人生を受け入れ誇り高く生き抜くことを決意する。このアニメの製作陣がオスカル様を所謂「令和ナイズ」された「ジェンダーフリーの象徴」としてオスカル様を扱う気は全くないということがわかってよかった。
オスカル様の苦しみは残念ながら昔から続く普遍的な女性の苦しみで、それに令和も昭和も平成もない。オスカル様は自分の意志と全く関係ないところで「男としての生」を押し付けられ、初恋の人にはそもそも「女」として意識すらされず、職場や家や様々な場所で「男」であったり「女」であったりすることを求められたり求められなかったりする。そこにオスカル様の意志はない。オスカル様が自分で選び取れたものは殆どない。
だから『ベルばら』は「それぞれの性別らしさ」みたいな次元の話ではない。性別より外側、もっと大きな枠組みの、「人間の人生」の話だ。オスカル様にはそもそも人間としての尊厳がほぼない。だからこそオスカル様は大貴族の家に生まれた自分の恵まれた環境に疑問を持ち、人間が生まれながらに持ちうる自由や平等について考え、「自分で選択する生」について考え革命に身を投じていったのだと思う。
私は小さい頃にはよくわからなかったオスカル様の「軍神マルスの子として生きる」ということを、今回の映画でやっと正しく理解できた気がした。それは開き直って男装の軍人としての人生を貫くということではなく、これまでの「女として生きられなかったそれまでの自分」を認めて抱きしめるということであるし、自由に生きられなかった生の中であっても得ることができた「尊厳」も一緒に抱いて誇り高く生きていくということなのだと思う。だって男装の麗人「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ」としての生があったから、オスカル様は様々な人間に出会い、同じだけ多くの考えに触れ、あまつさえ革命の最前線に飛び出していく選択肢を掴み取れた。それを今回の劇場版ではミュージカル的な歌唱とイメージ映像の中でうまく表現していた。
それにしたってオスカル様の器はでけえ。私は原作の「父上は私を卑怯者にはお育てにならなかったとお信じくださってよろしゅうございます」というセリフがものすごく好きなのだが、今回の劇場版にもちゃんとあって嬉しかった。
オスカル様の苦悩はほぼほぼ「父上」のせいだ。「父上」がオスカル様を後継ぎにしなければ、大貴族のご令嬢としてかなり楽に生きていられただろうし、順当に結婚して母親になったりもしただろう。実際、原作にはそう問いただして父親にその女としての人生を肯定されている。だがオスカル様は父親に「お前のせいで~!」となったりしない。他の人間には経験し得ない自分の人生を父親に感謝さえしている。そしてその上で、恐らく今生最後の別れとして「父上は私を卑怯者にはお育てにならなかった」と言い残して去っていく。身勝手に娘を「息子」にした父の後悔をオスカル様は全て持って行ってしまった。でっけえよ、器がでけえ……。
終盤、アンドレとの最初で最後の夜辺りから劇場内のあちこちからすすり泣きが聞こえていた。オスカル様がその人生を全うするのを観客が惜しみ、悲しみ、泣いていた。
賛否はあるだろうし、私も今回の劇場版の改善点が浮かばないわけではないが、観客にこのオスカル様を惜しませた時点である程度「成功」と言っていいと思う。それだけ新劇場版のオスカル様に観客を感情移入させたということだ。私も悲しかった。結核の描写もなかったし今回に限り何とかして生きていられんかと思ったがそうはいかないもんね……オスカル様の物語は死によって完成するので……。
少なからずプレッシャーを感じていただろう沢城みゆきさん、ありがとうございました。令和のオスカル様も素敵なオスカル様でした。フ…ランス…ばんざ…い!
アンドレ
一応確認なんですがアンドレ・グランディエ、脚本の一部書きましたか?
Xでも同じようなこと言われてて笑ったんだけど、アンドレ、脚本、書いたよね?
というのも今回の劇場版、アンドレの奇行が悉くカットされてる。まず原作でちょっと引いたメンヘラ発言が殆どない。オスカル様命のヤバ言動がほぼない。
オスカル様を無理矢理襲うシーンもないし、アランに身分違いすぎて無理だろって茶化されて泣きながらダイナミック草むしりするシーンもない。唯一無理心中図ったシーンはあったけど、前半は割とずっと善良に後方彼氏面をしているし、おかげで陰ながらずっとオスカルのこと好きでいたトゥルーエンドの恋人に見える。
いやでも、割とヤバい男なの私は知ってるんだからな……。私は旧アニメ初見と原作初読のときはアンドレの奇行と言動にかなり怯えたので当時は「やめろこんな男……怖いから……」になっていました。エンディングでオスカル様の名前絶叫する男がまともなやつなわけない。
でもただ一途な側面がピックアップされたので、出動前最後の夜のシーンと最期のお別れシーンは感動しました。結ばれたときはよかったね、よかったね……と純粋に思えた。「お前の目、唇」って顔を探るシーンが悲しかった。アンドレの人生もやっぱり苦悩が多かったと思うんだけど、それでも大半をオスカル様の一番すぐ傍で過ごして幸福だったんだろうなあ……としみじみした。
劇場版の主軸が誇り高いオスカル様の生き様に置かれていたからオスカル様は毎秒美しかったし、フェルゼンとの絡みも最低限だったし、アンドレが制作陣のどこかにいたのは間違いないと思う。まあ一途にずっと一人の女性を想い続ける男って今のニーズに合ってるからなのかもしれん、アンドレはオスカル様の選択を一番に尊重するから余計な口出ししないしね。良くも悪くも、優しく温かくオスカルを見つめる姿が強調されていた印象。キービジュ見てもらうとわかるんだけど、アンドレはオスカルの陰に立ってて「君は光、僕は影じゃん!!!!!!!!!」になったので私は勝手にテンション上がってました。本当にこの制作陣原作大好きだな。
あっ、でも「そのショコラが熱くなかったのをさいわいに思え!」がなかったの残念でした! 私はあのセリフ面白くて好きなので……。「さいわいに思え!」っていいよね、丁寧なんだか雑なんだか。あと「これがお前の目でなくてよかった……」も欲しかったな。
マリー・アントワネット
平野綾氏の声のままでギロチンに向かうまでをどうにかして作ってください。
本当に、これだけどうにかなりませんか。平野綾ボイスのマリー・アントワネット最高だったんです……。宝塚みたいに「アントワネットとフェルゼン編」みたいなの作ってほしい。
パンフを読んでご本人が「ずっとファンだった」と仰るだけあってアントワネットに対する理解がめちゃくちゃ高いのがずっとずっと伝わってきた。何がすごいって、フェルゼンと結ばれてから声が「少女」から明確に「女性」になってたんだよ。トーンが低く、落ち着いてる。許されない恋が少女だったアントワネットを大人にしたんだなあと思った。
私は個人的に史実の「マリー・アントワネット」に対して、可哀想だとは思うけど愚かだなあと思っていて、それは『ベルばら』の彼女に対してもそうなんだけど、劇場版は「遊びにうつつを抜かさなければ耐えられなかった孤独と空虚さ」をよりはっきり描いていて哀れだった。前半にあった歌って踊って賭博してるミュージカルシーンものすごくよかった。華やかなベルサイユで着飾っていても、それでも彼女は一人きりの冷たい廊下でこちらを振り返る。
あと大人になってから見る即位のシーン、だいぶ印象が違う。ルイ15世の崩御を知らされて二十歳にもならない若夫婦が泣きながら抱き合う場面の悲哀ったらなかった。あそこからもう悲劇が始まっている。アントワネットもまた自分の意志とは関係ないところでどんどん時代の渦に巻き込まれて行って悲しかった。そういうアントワネットの悲哀や孤独にかなりフォーカスされて、近年の研究が反映されているのかなとも思った。
それからこれはすごく私の中で得点の高かった演出の話なんですが、アントワネットとフェルゼンのミュージカルシーンの衣装、あれ9巻で初めて二人が結ばれた(ことになっている)ときのギリシャ風の衣装だったんですよ!!!!! 原作を読んでる人ならたぶん気づくそういう演出が嬉しかったし、いやこの制作陣原作大好きかよ~を改めて感じました。
でもとにかく平野綾さんボイスのアントワネットで最期を見たかったなあ~。もう言い尽くされてるけどデュ・バリー夫人全カットで気高いアントワネット様を味わえなかったの惜しいし、オスカル様が出動したって聞いたときの「オスカルを呼び戻しなさい!」のシーンもなかったの残念。子どもを産んで女王として目覚めてからのアントワネットを平野さんの声で聴きたかった。ルイ・ジョゼフを喪うシーンとかギロチン台での「これがフランス王妃の死に方です!」も聞きたい。
この劇場アニメで儲けたら作れませんか? どうでしょうか……。
フェルゼン
アメリカ独立戦争に出征しなかったしヴァレンヌ逃亡事件もなかったから「全部中途半端なお前のせいだよ」感がすごかった。いや、全部お前のせいだよ。
私はそもそも原作を読んでいるときからあまりフェルゼンが好きじゃなかったので、好きになる要素もなかったので、まあ致し方ないかなという気はするんですがとにかく尺が足りてなかった弊害が全部フェルゼンに行った感じ。やっぱり「アントワネットとフェルゼン編」作った方がいいって!
本当に印象が薄いのは「俺は逃げるぞ……!」がカットされたからじゃないかなと思う。確かにアントワネット様との許されぬ恋に苦悩するシーンはあったけど、一番印象的なあの台詞がなかったからかな。
あと「私のアンドレ!」のシーンなかったし、かなり出番カットされたからなあ~。まさかオスカル様の生涯一度のドレスシーンがミュージカルシーンだけで流されると思わなかったから、オスカル様を語るセリフがなかったのが残念。やはり「アントワネットとフェルゼン編」作るしかないって……。そしたら好きになれるかもしれんし……。
ルイ16世
いや株が爆上がりしたて。元々割と好きだったけど。
今回本当に嬉しかったの、ルイ16世とアントワネットの名シーンがカットされなかったことかもしれん。私はね、原作の手紙を読んで涙するルイ16世のシーンが大好きなんですよ。
「私がもう少しスマートで美しくて」のセリフ、こんなに切ないことあるか??? このシーンがあっただけで最高すぎたわ。本当は美しくて愛らしいアントワネットのことを愛しているけど、自分の容姿やコンプレックスをわかっているからこそ口に出せなくて、王妃としての義務は果たしてくれたアントワネットの女性としての幸せを認めてくれる。こんないい夫あるか????? これがあるから私はフェルゼンのことがあんまり好きになれねんだ……。
「愛しているということばをひとことでもあなたにいえただろうに」って涙を流しながら立ち去るアントワネットを見送るルイ16世だけで120億点。ありがとう、このシーン絶対見たかったんだ。
背景や美術面について
池田理代子先生がパンフのインタビューで「今はこんなに綺麗にできるんですね」と仰っていたけど、背景が本当に綺麗だった。360度綺麗だったし、その上で結構動くからアニメ作品としてのレベルはかなり高かったと思う。
ベルサイユ宮やオスカルの部屋、ドレス、全部ひたすら美しい。当然なんだけどセル画の旧アニメと比べて技術が進歩して、デジタル作画で細かく作画、着色できた点がかなり良く出た。
タイムリーにパリ五輪があって、ベルサイユ宮殿は馬術競技で使ったからところどころ「あっこれオリンピックで見た!」の景色が映ったのも嬉しかった。それだけ忠実に作画されたってことだと思うので。
特に「すごい!」と思った点が、オスカル様の近衛連隊の隊服が原作から修正されていたこと。原作のあとがきで「オスカルの近衛連隊時代の隊服は様々なものをちゃんぽんしていて歴史的には正しくない」と書かれていたんだけど、今回劇場アニメにするにあたって史実通りに修正したんだと思う。他にも衛兵隊の隊服も違ったし、アントワネットのドレスや髪型もかなり時代考証に沿って正しいものにしたとパンフに書いてあった。その辺かなりしっかりしていた。良い。
逆にここは気になったところ
いやあ尺が足りなかった、本当にこれに尽きる!
もう言われ尽くしているので今更なのだが、まさか首飾り事件と黒い騎士エピ、デュ・バリー夫人ポリニャック伯夫人周辺が全カット、ロザリーがほぼカットされると思っていなかった。思い切ったな~。
本当に時間さえ解決すればすべてがうまくいった。本当にそう、それ以外に言うことがない。うわぁここカットしたのかあとかここ見たかったなあとかすべてが「時間」で解決する。逆に言えばそれ以外はほぼ完璧と言っていい。
ただ思うに、「切らなくていいなら切りたくなかったよ!」というのが制作側としても本音だと思う。それはひしひしと感じた。じゃなきゃあの一瞬のためにロザリーで早見沙織さんを連れてこないし、あのシーンにロザリー出すこともしないと思う。私はあれは何とかしてロザリーを出したかった名残だと思った。
今回2時間の劇場版アニメという形で再アニメ化に踏み切った理由は一観客の私にはわからないけれど、一つの作品に掛けられる予算や時間は限られているし、偉い人たちに「これで決定です」と言われたら制作スタッフの人たちはそれでやらなくてはならない。それが仕事ってやつなのだ。悲しいけれど。私は今回決められた範囲、できる範囲で最良のものを出してもらったと思っています。
ネット上では結構賛否を見たミュージカル演出についても、尺が短かったからこそミュージカル調にしたのではないかなと思っている。原作にインスパイアされた宝塚版があることだし、『ベルばら』とミュージカルは割と近いところにあるからそういう手段をとったのかもしれない。歌が多いだとかイメージビデオ的な演出は人を選ぶ側面もあるから好き嫌いが出てしまったのは仕方のないことだと思うが、音楽に澤野弘之氏を起用して重厚感ある楽曲を作ってくれたことは個人的には嬉しい。劇伴含め音楽めちゃくちゃ良くなかったですか?
だが『ベルサイユのばら』という往年のファンが多い作品である以上、期待値はものすごく高かっただろうし、旧アニメのファンも多いし、今回の劇場版を見てマイナスな感想を抱いてしまったとしてもそれは仕方のないことだと思う。これはそれだけ多くの人に読み継がれてきた素晴らしい作品なので、個々人の思い入れが強い。賛否が他の作品以上に出てしまうのはある程度予測できる。
声高に強い言葉で貶したり、誰かが傷つくかもしれない言葉を選ばないのであれば「合わなくてショックだった」という気持ちも「もっとこういうの見たかった」という気持ちも言っていいしそういう感情も大切にした方がいい。だが貴方の気持ちは貴方の気持ち、私の気持ちは私の気持ちなのだ。それは忘れないでおきたい。
私もおおむね満足したが「これ見たかった~」はめちゃくちゃある。見ないで文句を言うのはもちろん言語道断だが、見た上での「ここはこうしたほうがよかった」は正しく届けた方がいい。
それに制作陣はかなり熱意があると思うし、原作もかなりリスペクトしていたから、ある程度売り上げが出ていたらそういう意見も聞き入れて続編を作ってくれたりするかもしれない。何度も言うが私は「アントワネットとフェルゼン編」が見たいし、今回のキャストスタッフで最初から最後まで2クールアニメとかで作ってくれたりしたらめちゃくちゃ嬉しい。何とかなりませんかね……。
今、『ベルサイユのばら』を改めてアニメにするということ
冒頭にも書いたのだが、今回『ベルサイユのばら』が過去にあれほど人気のあるアニメ版があるにもかかわらず、令和の今キャストを一新して劇場アニメとしてリメイクした意味と必要性は大いにあると思う。いくら『ベルばら』が親から子へを読み継がれていく大名作であったとしても、新規人口の流入は必要だしそのための働きかけも同様である。時の流れには残念ながら逆らえない、もしも親が『ベルばら』に触れていないのであれば当然子にも継がれない。それならば子世代が自発的に『ベルばら』に触れる何かが必要だ。
そうして新しく現代に生まれた『ベルばら』が今回の劇場版で本当に良かったと私は思う。確かに尺は明らかに足りなかった。オスカル様の生き様にフォーカスした結果、作品の魅力である歴史超大作としての側面は薄れてしまっていたように思う。勿体ないことだったのは間違いない。私はあのエンドロールも好きだったけどね。
だがそれでも素晴らしいと思ったのは、今回の劇場版は「原作のあのコマだ!」と思うシーンが数多くあったことだ。特に後半の革命からオスカルの最期は殆ど削らずに原作準拠で進められていた。制作陣が限られた時間の中で苦心して原作の再現に努めたことは感じ取れた。原作ファンであれば、「ああこれはあのシーンだ」と嬉しくなる箇所は多かったのではないかと思う。少なくとも私はそうだった。
何より、映画を見た後に「家に帰ったら原作を読み直したい」と思えた。マイナスの意味ではない。映画の出来が良かったから、映画で見たあのシーンをもう一度原作で読みたいと思った。だから私は家に帰って本棚の奥から1巻と8巻のない母の単行本と、足りない8巻を補うために買った文庫版の4巻と5巻をまた引っ張り出したし、リビングで積み上げて読んでいたので母からは「ちゃんと大事に読んでよぉ」と怒られた。母は来場者特典が切り替わったら行くらしい。私がもらった複製原稿は母に献上した。
劇場版は二時間のかなり濃縮『ベルサイユのばら』だったことは否めない。それは残念な点でもあったけれど、その分息を吐く間もなくオスカル様の人生を追えたのはそれはそれでよかった。あの濃度でなければ得られない強い感動だったと思う。
今はおそらく原作からのファンが大勢見に行っているのだと思うが、もしここから新しくハマる人がいて新しい読者が増えて行ったら、私のように親から単行本を手渡される子どもたちがいたら。気になって本の通販サイトを見たのだが、単行本は悉く取り寄せになっていた。間違いなく新規読者は増えていっている。
それに劇場版の公開が終わっても、2時間で見られるアニメ作品として配信サイトで手軽に見てもらえるようになるのだとしたら。この劇場版はこれから新たに『ベルサイユのばら』への入り口になってくれるはず。
それは作品にとってもファンにとっても幸せなことに違いない。だってそれはオスカル様が令和の先も永遠に誇り高く生き続けるということなのだから。