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《連載・長編冒険ファンタジー》アスラオ・碧を継ぐもの 第一話

あらすじ

 中学2年生の男子、名津木未来みらいは小学校時代のある事故を境に人間不信に陥った。幼なじみの双子の兄妹以外、学校で話をする友人はいない。イケメンでスポーツ万能。当然女子にはもてるはず。だが本人は、それどころではない重い秘密を抱えながら、悶々とした日々を過ごしていた。 
 少年未来の周りには、大学の講師をしている育ての母、彼女の恋人で駆け出しの日本画家、二人の友人で、未来の通う空手道場の師範や動物病院の院長たち大人がいた。消したい過去を胸に押し込み、未来がとにかく生きていこうと思えるのは、自分を愛してくれる彼らの存在があるからだった。
 だが、突然すべてを失った。
 信じていたものに裏切られ、傷心の未来は家を飛び出し、ある町を訪れる。
 町は翌日から始まる御玉神社の祭りに沸いていた。30年に一度の帰命祭、三日間かけてご神体に泉にお帰りいただく神事が行われる。ご神体は恨み言を吸い上げてくれる美しい玉だという。
 明け方、未来は数日前から悩まされていた夢で聞いた不思議な音に誘われて、神社の裏山に登る。霧の向こうに現れた泉。なんと音はその底から響いていた。戦慄する未来は、突然草の間から飛び出してきた少年とぶつかり、冷たい水に落ちてしまう。
 未来が少年とともに這い上がった先、そこは遠い昔に周囲から切り離された異世界、ハクワの国だった。
 泉を抜けて少年がやってきた!
 色めきたつハクワの人々。そしてその瞬間からハクワの国に、はるか昔から言い伝えられた希望の子、アスラオの物語が始まった。
 日本人とは程遠い、彫の深い顔立ちの人々。彼らには悲願があった。肉親を惨殺した仇、北の山に棲む妖獣ノーバの討伐である。
 次々と明らかになるハクワと自分とのつながり。筋書きにどんどん組み込まれていく自分。
 混乱する頭を抱えながら、必死に突き進む未来。仲間との友情に目覚めながら、未来は少しづつ本来の自分を取り戻していく。
 淡い恋、裏切り、残酷な別れ、悲しい真実。
 そしてラスボスノーバとの戦い。
 
 運命とは何か。人はただそこを歩かされているだけなのか。
 すべてが必然であるならば、だからこそ道は自分で選ぶ!
 
 怒涛の如く次々と押し寄せる運命の波を、ボロボロになりながら見事に泳ぎ切った、少年未来と仲間たちの、愛と涙と友情の熱い冒険ファンタジー。

 
 伏線完全回収! 毎週水曜日投稿予定です。完結まで33話前後になるかと思います。最終話で最大の謎が明かされますので、どうか最後までお付き合いください!


《登場人物》

〈外の国〉
未来みらい  主人公 十四歳
礼   未来の育ての母
そう   礼の恋人
中根  空手の師範
森谷  動物病院の先生 
しゅうと舞 双子の兄妹 未来の幼なじみ
 

アスラオ・碧を継ぐもの 第一話


大鍬鳥オオクワクウの羽のごとく時は重なり
トシュラとマリシカの翼交わる年に
母なるシュクラの子は肉身に宿り
ハスワスリの祝福を受けこの地を終焉に導く


握られた手

「未来、起きて! 早く着替えて」
 激しく揺り動かされて、未来は目を覚ました。暗い部屋に、ドアの隙間から廊下の明かりが差し込んでいる。礼はリビングに戻り、なにやらガタガタと音を立てている。片手を伸ばし、ベッドヘッドの棚にある目覚まし時計を探り当て、何とか手元に引き寄せた。二時十分。真夜中だ。
「つけるよ、電気」
 再び礼が顔を出し、壁のスイッチに手を伸ばした。とっさに毛布をかぶったが、痛烈な光がまぶたを突き抜けた。
「ちょっと…なんだよ」
 手のひらで顔を覆い、布団の中で芋虫のように体を丸くする。
「病院に行く」
「…なんで?」
「急いでるの。着替えて」
 低く押し殺したような声が返ってきた。未来は唸り声をあげながらベッドから降り、椅子の上に高く積み上げられた一番上にあるシャツと、床に捨ててあるジーパンをはいてリビングに行った。足の裏に床が冷たい。未来はブルッと身震いをした。
「あれ? そうは?」
「もう行ってる」
「…誰か病人だったっけ?」
「うん」
 礼は血の気のない白い顔で、垂れてくるワンレングスの髪をかき上げながら、ライティングデスクの上を引っ掻き回している。積まれた書類や本がバタバタと床に落ちた。派手な腕の動きに反して、指先は微かに震えていた。
「なに? 免許証?」
「うん」
「あるじゃん、ここに」
 未来は、ソファーの肘掛の隙間に半分入り込んでいる財布を取りだして、礼に差し出した。
「ああ、サンキュ。先に乗ってて」
 礼は車のキーを投げてよこした。

 冬用のコートをはおり、外に出た。四月半ばとはいえ、真夜中はまだ冬の冷気が森を覆っていた。葉を広げたばかりの桜の木の上に、星が瞬いている。未来は腕組みをしながら背中を丸めて、ガレージで眠っている冷えたワゴン車の助手席に乗り込んだ。
 礼もダウンジャケットを着こみ、すぐ後から外に出たが、門のところで立ち止まった。電話らしい。下を向き、夜空を仰ぎ、未来を見る。三メートル以内を行ったり来たりして、しばらく何か話しこんでいたが「とにかく行くわ」と一声あげると、スマホをダウンジャケットのポケットに押し込み,門扉をしめてようやく車に近づいてきた。
「ごめん、待たせた」
 
 電話の相手は湊だろうか。こんな夜中に、車を使わず湊はどうやって病院まで行ったのだろう。冷気で一気に頭のさえた未来は、エンジンをかけ車を発進させた礼の思い詰めた横顔を眺めながら、考えを巡らせた。だいたい、今たぶん死にかけているヤツは誰なのか。夜中に車を走らせるほど親しい人間だとしたら、未来には数人しか思い浮かばない。だがそれならば、もっと前から見舞いに行くぐらいはしているはずだ。とすると、急病か事故だろうか。
「ねえ、誰なの?」
 礼の薄い唇がふわりと開いた。だが言葉は出てこなかった。
「なんだよ!」
「未来にはあまり関係ない人よ」
「はあ? じゃあなんでおれ行かなきゃなんないの? 夜中だよ」
「一緒に来てほしいのよ」
 礼は片手で髪を乱暴にかき上げる。イライラしている時の癖だ。こういう風になった礼に何を聞いても、ちゃんと答えてくれたためしがない。未来はため息をつき、気分の悪さを下腹に閉じ込めた。
 礼は森の中の細い砂利道を、小石を飛ばして車を走らせた。少し行くと舗装された道に出る。山の上に市で運営している保養所があり、狭い道だが一応整備されている。  
 カーブのたびにタイヤが悲鳴を上げた。肩がドアにぶつかり、未来は思わず声をかけた。
「礼、大丈夫?」
「なにが?」
 体が横に振られ、またタイヤが鳴る。
「死にたくないんだけど」
 車がガクンと何かを乗り越えた。たぶん昨日の嵐でちぎれ飛んだ木の枝かなにかだろう。礼は無言でハンドルを握る。
 死にたくない…。適当に口にしたその言葉は、着地地点が見つからず、居心地が悪そうに目の前に浮かんでいた。
(生きていたくもないんだけど)
 心に鉛色の重しをのせたまま、未来は通り過ぎる暗い森に目をやった。
 山を下るにつれて、木立の間から、国道の明かりがチラチラ透けて見え始めた。真夜中に訪ねてくる人間がいるわけもなく、まったく無意味にライトアップされた「友森の里入口」の看板の横を通り過ぎると、山道が終わる。フロントガラスいっぱいに夜空が広がった。未来はようやく温まってきたシートに深く身を沈め、ほっと息をついた。
 しばらく田んぼの真ん中を走り、左折して多加木大橋を渡る。真夜中の綾寝川は黒々と蛇行し、うねりに沿って国道が走っている。右折して国道に入り、礼はグンとアクセルを踏んだ。
 左側に夏見山が迫り、ふもとを鉄道がしがみつくように走っていて、国道はそのまた一段低いところにある。線路と国道、綾寝川は、このあたりは平行に東西に延びているのだ。右側は川までの間を田んぼが覆い、その中に点々と家があるのだが、今はひっそりと闇に沈み、等間隔でやって来る国道のライトの向こうで、偽物の景色のように過ぎ去っていった。
 礼の運転するワゴン車のほかに、走っている車はない。少し前に一台すれ違ったが、ハンドルだけがやけに白く、車内は真っ暗な洞穴のようだった。胸の奥がゾワッと毛羽立ってった。魔宮に迷い込むとしたら、こういう瞬間なのかもしれない。
「なあ、病院って? どこの?」
「市大病院」
「どこにあんの? それ」
「五十分くらいよ。飛ばせば」
「は…?」
 未来はまじまじと礼の横顔を眺めてやった。
 国道沿いに建物が多くなってきて、スーパーやラーメン屋の看板の明かりが飛び込んでくる。一時、道は線路と別れる。駅が近いのだ。未来はシートから身を起こし、左側の窓をのぞいた。田舎とはいえ一応駅前だ。短いながらも商店街には一通りの店が並び、中学生の未来でも、たまにはハンバーガーを頬張ることもある。家から駅まで車で約十五分。歩いた場合、山を下りるのに二十分。そこから駅まで四十分。学校は駅の近くなので、合計一時間の道のりを未来は毎日通学している。
 そろそろ商店街の入り口が近い。昼間は人の行きかう商店街の真夜中の佇まいに、未来は興味をそそられた。通り過ぎるその一瞬を逃すまいと、未来は窓に張り付いた。
 もうすぐやってくるスーパーとコンビニの角の、信号のところ。
 だが、その少し手前の、建物が折り重なるずっと奥に目が吸いついた。
「あれ?」
「なに?」
「中根道場、明かりがついてる」
「そう?」
「う…ん違うかな」
 中根道場は空手の道場で、師範の中根は礼や湊の昔ながらの友達である。その縁で、未来は子どもの頃からそこに通っていた。田舎町でありながら、中根の熱血指導の下、全国大会で優秀な成績を残した人も多く、駅に近い利点もあり遠くから通う子もいて、都内では結構名の知れた道場だった。
(そうだな。こんな真夜中に起きているはずないか)などと考えている間に、駅前入り口はとっくに通り過ぎていた。
 しばらくすると、国道は線路と本格的に別れ、大きく蛇行する綾寝川をまたぎ、西から来るバイパスと合流する。道幅が広くなり、対向車もちらほら現れるようになった。
 未来も礼も無言のまま、車がいくつかの街並みを通り抜けて、市大病院に着いたのは、三時を回ったころだった。

 夜間は救急の入り口を利用するらしく、赤色灯の回るドアを押して中に入った。深夜受付の横にあるエレベーターに乗り込み、礼は五階のボタンを押した。こんな夜中にふたり分の体重を引っ張りあげる、ダルそうな唸り声が止まり、ドアが開くと、目の前に薄暗い廊下が伸びていた。ジュースの自動販売機がやけに明るく光を放ち、取り残されたようにひっそり息をしている。今この瞬間が、果たして現実の出来事なのか、未来は相変わらずあやうい気分に浸っていた。
 病室の開けられたドアの前を通る度、闇の中にせき込む声や、低いいびきが聞こえてくる。礼は迷路のような廊下を的確に回り、出払って誰もいないナースステーションの隣の病室の前で、ぴたりと足を止めた。礼は振り向いて未来を見ると、少し苦しそうな顔をした。小さくノックして静かにドアを横に開く。
 ピッピッピ
 機械音が聞こえてくる。スルリと入っていった礼の後に慌てて続き、そっと病室をのぞく。ふたり部屋らしい。それぞれのベッドは薄いピンク色のカーテンで仕切られるようになってはいるが、手前のベッドは空いていて、カーテンが壁側に寄せてあった。
 奥のカーテンが揺れて、顔を出したのは湊だった。湊は未来を見て少し微笑んだ。病室の入り口に未来を残して、礼はカーテンの奥に入っていった。「どう?」
「落ち着いたよ。もう大丈夫だって」
 湊の静かな声が響く。
「よかった…」
 礼の声は絞り出すようにか細かった。
 単調な機械音の合間に、小さくシュウシュウと籠った音が聞こえる。礼が白い顔を出した。
「未来…来て」
 その声で、未来は一気に現実に戻された。心臓が強く打ち始める。この薄い布の向こうに、たぶん死に逝く人がいるのだ。そしてここに呼ばれるということは、礼がどう言おうと、絶対的に自分の知り合いだ。未来は顔をこわばらせた。
 湊がカーテンを少し開けて出てきた。ちらりと見えたベッドの上に、灰色の細い足があった。湊は小さな子どもにするように未来の頭に手をのせ、肩を軽く抱いた。
「礼の親戚のおじさんだ。あまり覚えてないだろうけど」
 促されて、未来は恐る恐るベッドの足元に近づいた。まさに、ドラマでしか見たことのない光景が目の前にあった。音に合わせて波形を記す心電図。ベッドの脇から垂れ下がるいくつもの点滴の管。寝かされている人は口に酸素マスクをあてられ、鼻にもチューブを挿されている。シュウシュウと鳴っていたのは、この人の呼吸音だ。息をするたびに、酸素マスクの内側がかすかに曇るのが分かった。
「こっちに来て、未来」
 礼は未来の腕を取って、病人の枕もとにあるパイプ椅子に座らせた。白髪交じりの頭、頬はこけやせ細り、まるで折れた木の枝にタオルケットを被せているような頼りなさだった。
 礼が男の耳元で何かささやいた。反応はない。すると今度はドキッとするほどはっきりとした声で言った。
「未来よ。目を開けて」
「なあ、礼、おれ」
 あまりの居心地の悪さに、未来は立ち上がろうとした。その時、男の唇がかすかに動き、そこから枯れ枝をすり合わせたような乾いた声がもれた。「み・ら・い…」
「そう、未来よ! 未来が…来たのよ!」
 礼は未来の後頭部に手を当てて、引きつる顔を男の目の前に突き出した。礼の声が聞こえたのだろう、男のこめかみが微かに痙攣する。男はゆっくり目を開けた。ぼんやりと自分を眺める色あせた瞳に、次第に意志を持つ光が宿るのがはっきりわかり、未来は身体を固くした。突然男の顔がゆがみ、落ちくぼんだ目から、みるみる涙があふれだした。
(え? うそ! なに?)
 助けを求めて未来は湊を振り返った。後ろにいたはずの湊の姿がない。すると今度は、タオルケットから出た男の蝋のように白い指が、明らかに何かを求めてシーツの上をまさぐりだした。その瞬間、礼はとんでもない行動に出た。未来の手を取り、その男の手のひらに重ねて、自分の両掌で上下から包み込み、しっかりとロックしたのだ。礼のあまりな行為に圧倒され、未来は少しの間、されるがままになっていたが、さすがに手を引こうとした時だ。作り物のように固い男の手が、ゆっくりと未来の手を握ってきた。
「そうよ、未来よ」
 冷たかった男の手のひらから、じんわりと微かな熱が伝わってくる。未来は身体を引き気味にしながらも、動けないでいた。男の目がしっかりと未来をとらえ、口を一文字に結びながら、ふるえるように何度も小さく頷いていたのだ。そして多分精いっぱいの力を込めて、未来の手をさらに強く握ると、ふうっと息を大きく吐いて、目を閉じた。しわに埋もれた男の目じりから一筋涙がこぼれ落ち、薄べったい耳の入り口に溜まった。
「待って、待って!」
 ふたりの手を放り投げて男にしがみついた礼の肩を、戻ってきた湊が引きもどした。
「大丈夫だ。眠ったんだよ」
 男の手から解放され、未来はほっと胸をなでおろしたが、心臓はまだ秘かに音を立てていた。
「どこ行ってたんだよ」
 未来は、急にいなくなった湊を非難がましく見上げて、すぐに目をそらした。白目が赤く、泣いていたか、泣くのを我慢していたか、そんなふうに見えたからだった。

 病院を後にしたのはもう四時近く。影絵のように山が連なる青い夜明け前の国道を、湊が運転をして帰る。
「ごめんな未来、寝れなかったな」
「いいよ、授業中寝るから。でもあの人おれ全然覚えてないんだけど」
「うん…そうか」
「かわいがってくれたの」
 礼がぽつりとつぶやいた。
「ふうん…」
 手のひらに男のぬくもりが残る。握られたことがいやではなかったことが不思議だった。
 それから二か月後、梅雨に入る前、その人は亡くなった。

夢の続き

 プールサイドにホイッスルが響き、水しぶきが上がった。よほど生徒の行いが悪かったのだろう。七月初旬から水泳の授業が始まる予定だったにもかかわらず、梅雨時の雨にたたられ、夏休み直前にしてようやく今日プール開きを迎えた。これが今年、最初で最後の授業になった。
 実力でクラス分けされた練習を終え、後半四十分は、男女入り乱れての自由練習となる。もちろん練習とは名ばかりで、ビーチボールや小さなゴムボートくらいなら持ち込みを許された、恒例の言ってみれば楽しいレクリエーションだ。騒がしい水音と共に湧き上がる絶え間ない歓声は、このあたりの夏のかなり迷惑な風物詩に違いない。
 未来の通う高那中学は、駅を南下して、綾寝川を渡り少し歩いた田んぼの真ん中にある。プールは広い校庭の東側の端にあり、全体に周囲より少し高く作られているために、ここから見渡す里山の眺めは、町のホームページのトップを飾るくらい美しい。
 雲一つない空。田んぼは水を豊かにたたえ、暖かい風に柔らかにしなる稲が、山のふもとまでを美しい緑に染めている。
 プンと鼻をつく微かな水の匂い。目の前で繰り広げられる健やかな青少年の大騒ぎには目もくれず、未来はプールサイドに造られた屋根がある休憩コーナーで、パイプ椅子に座り、初夏の光が水面にきらめく様を眺めていた。 
 幾重にも光る波のきらめきが、寝不足の未来の両目から脳の深いところに刺さってくる。と、突然揺らめく光の底から、ブワリと幼い頃の記憶が浮かび上がった。
 ゆらゆらと水中を戯れる光の帯。妙にぬるいその中を、太ったの男の子が漂っている。やがてゆらりと頭を傾けてこちらを向いた白い顔には、闇にのまれた瞳があった。
 激しい吐き気と頭痛が未来を襲う。未来は口に手を当てて生唾を飲み込んだ。季節は容赦なく巡ってくる。夏になるといやがうえでも必ず訪れる、この「プールサイドで見学」というシチュエーションが引き金となって突き落とされる暗闇の記憶。未来はこれに毎年必ず一度は打ちのめされるのだ。「まったくさあ」
 その声で、未来は我に返った。隣に座っているしゅうが、細い顎をしゃくって不機嫌な顔をした。
「おれたち何が悲しくて、ガキんちょのバカ騒ぎを見せられてんだ?」
 額から冷や汗が滴り落ちる。吐き気はまだ続いていた。こともあろうに、この夏はたった一回で済んだこの授業で気を抜いてしまった。未来は顔をしかめ、下腹に息を通した。
 未来の生返事に、秀は白けた様子でプールサイドに目を移した。生まれつき心臓が悪い秀は、水泳に限らず体育の授業は見学が多かった。
「ああ、暑いなぁ。みんな気持ちよさそうで腹が立つ」
 シャツの襟をつかみ、薄い胸元にパタパタ風を送りながら、秀は水筒に口をつけた。
「なんでさあ、おれたちここにいなきゃなんないわけ? どっちかっていうと、おれたちかわいそうなんだよ、プールに入れない体なんだから。そしたらさあ、普通は気を使ってもらえるんじゃないの? 逆に。キミたち、ここにいたら辛いだろう? ほら、クーラーの効いた校長室で、何でも好きな映画、観ていいんだよぉ。なんだったらアイスでも食べます? とかさ」
 ようやく吐き気がおさまった未来は、両手を上げて伸びをした。後頭部が緩み、あくびが出る。
「拷問だよ。まったく」
 秀は口を尖らせながら話し続ける。
「おれだって、夏は嫌いじゃないんだ。寒いより動けるから。まあいいよ。将来は家のキャンプ場継いで、従業員に任せてさ、風通しのいい部屋で冷たいそうめん食いながらエッセイなんかを書いて過ごすんだ。それがわしのささやかな夢じゃ!」 
(夢…そうだ! あの夢…)
 未来は体を起こした。数日前からおかしな夢を見ていた。それでここ何日か寝不足だったのだ。
 突然椅子をガタつかせた未来に「ん?」と秀は怪訝な顔をむけた。
「どした?」
「あのさあ…夢って続いたりするもんかな」
 秀は溶けかかったアイスのような顔で返してきた。 
「そうだなぁ。うん、まあ続きもあるんじゃないかな。なんで?」
「昨日見た夢の続きを、今日見るとか」
「う…ん、夢の途中で起きちゃって、寝たらまた続きを見ることはあるからな。一日たっても、ないことはないかもな」
 水しぶきがふたりの足元に飛んできた。濡れたコンクリートがみるみる白く乾いていく。舞(まい)がプールの中から手を振っていた。舞はオットセイのように水から軽く飛び上がり、プールサイドに腰かけた。紺色のスクール水着に締め付けられた上半身が、微笑ましいくらい逞しい。秀が睨んだ。
「なにすんだよ、ばか」
「いやらしいこと考えているだろー」
「ばっかじゃないの? おまえのおっぱいなんて見飽きてるよ。なあ未来?」
「あらそう? でも少し違うかもよ、前とは。見るぅ?」
 秀はのどを押さえ、吐く真似をして見せる。また水が飛んできた。秀は手のひらをヒラヒラさせて顔をそむけた。
「うっさい。あっち行けよ。じゃまじゃま」
「ふーんだ! 秀なんか溺れて死にな!」
「バーカ、おれは軽いんだから溺れないよ。おまえにプールに突き飛ばされたって、アメンボウみたいに表面張力を利用して、スイスイ漂ってやる!」「うわ、まじ気色悪い」
 舞は笑いながら、きらめく水に吸い込まれていった。 
 秀と舞は双子の兄妹で、未来とは保育園からの幼なじみだ。ふたりの親は友森山のふもとでオートキャンプ場を経営している。
 高那中学は一学年四クラスの小さな学校で、比較的新しい学校ながら、地域の住民に愛されて、年に一度の文化祭や秋の体育祭には、一般参加も受け付けて、結構な盛り上がりを見せる。春は綾寝川沿いの桜の花見客を引き込んでの桜祭りに始まり、夏の盆踊り、町内会の餅つきなど、地域住民の交流の場としてしっかりと根付いているのだ。
 並んで建つ二棟の校舎の間には中庭があり、駅前のカルチャースクールに集うサークルの人達や、土を愛する有志のグループにミニ菜園として開放している。利用者の好意により、生徒にはつまみ食いが許されていて、夏の間は手軽に摘めるミニトマトが人気だった。
 四時間目の水泳が終わり、着替える必要がない未来は、東棟一階にある昇降口に直行した。すでに十数人が列を作り、ピンクの花マルが白い車体にめいっぱい描かれた軽トラの到着を待っていた。高那中学には、毎日交代で違うパン屋が学校に入る。今日は、ハナマル屋の今学期最後の日だった。
 高那中学では、昼飯はそれぞれ好きなところで食べてよいことになっていた。ほとんどの生徒が教室で弁当を広げるが、未来は中庭の野菜をながめながら食べるのが好きだ。礼は料理が不得意なので、未来はパン屋の常連客ではあるのだが、たまに湊に時間があるときは、雑誌の料亭の弁当特集さながらの美しい弁当が現れる。そんな時は、舞がどこからか匂いを嗅ぎつけて、必ずおかずを横取りにやってくる。
「未来、おまえ早いよ」
 秀が弁当箱を小脇に抱え、ひょろひょろと小走りでやってきた。きゃしゃな身体が大きめのシャツに包まれて、辛そうに息をしている。
「おれも今日パン買うって言ったじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ。揚げシュウマイドッグ」
 未来は憮然として前を向いた。
 ハナマル屋がやってきて、昇降口に車を横付けすると、一番人気の揚げシュウマイドッグの激しい争奪戦が始まる。結果、未来は二つ、秀はどうにか一つ手に入れることができた。秀は声を弾ませた。
「プチトマト、食べごろだろ? あとキュウリも。家からばあちゃん特製の味噌持ってきたからつけて食べようよ」
 東棟の中央にある昇降口は、校舎の一階を貫いて中庭に出ることができる。向かいの西棟も扉を開け放してあり、田んぼを渡るぬるい風が吹き抜けてくる。
 中庭に一歩足を踏み出したところで、体育館のほうから男子生徒がふたり近づいて来るのが見えた。靴のかかとを踏んで引きずりながら歩いてくる。一組の田沼と真崎だ。痩せて肩を丸め、目つきが極めて悪いほうが田沼。ずんぐりとした高校生並みの体格を、だるそうに揺らせて歩くのが真崎だ。ふたりは駅の北側にある小学校出身で、六年の頃から評判の悪童だ。一年のときはさすがになりを潜めていたが、二年に上がると三年の先輩にケンカを売りまくり、今年のゴールデンウィーク明けにバスケ部の部長が、鼻と腰の骨を折って入院したのは、用水路から落ちたのではなく、実は二人のどちらかとたいまんをはった結果であると、生徒の間ではもっぱらの噂だった。
 田沼は左手にいくつかプチトマトをのせ、右手で一つずつ口に放り込んで、クチャクチャと噛んでは、皮をペッと地面に吐き出している。田沼は上目遣いに、真崎は見下すように、あからさまに未来を睨みつけ近づいてきた。南風に乗って微かに煙草の匂いがする。秀はさりげなく未来の後ろに回り込む。ふたりは目の前でのっそり足を止めた。田沼は未来の足の先から頭のてっぺんまでをなめるように視線を移し、耳元に顔を近づけた。
「名津木、おまえ、空手やってんだって?」
 口の端を釣り上げて笑う。
「だっせぇ」
 生ぬるい空気が、もったりとさらに熱を帯びる。未来は目をそらし、畑の脇に咲いたひときわ背が高いひまわりの花に視線を移した。
 田沼はフンと鼻を鳴らし、薄ら笑いを浮かべて視界から消えた。ドンと鈍い音がして「ひぇ!」と秀の声がした。未来が振り返ると、秀がしりもちをついていた。
「悪いなぁ、野々浦君大丈夫? ぼくたちよそ見しちゃった」
 猫なで声でそういうと、田沼は秀の手元を離れて地面に転がった揚げシュウマイドッグを拾い上げる。
「おいしそうじゃん。ありがとな」
 田沼はパンの包装を乱暴に破り、真崎に渡した。真崎はパンに無言でかぶりつく。揚げシュウマイがブリッと半分ちぎれて、パンの切れ目から持ちあがり、真崎のぶ厚い唇がそれをぺろりと回収した。
「おい」
 未来がふたりに近づくのを見て、秀は慌てて立ち上がり、未来の腕を掴み菜園の中に引っ張っていった。未来は秀の手を振り払って声を荒げた。
「なんなんだよ。パンは? いいのかよ」
「いいんだって。関わりたくないんだ」
 秀はズボンの土を払いながら、血がにじむ手のひらを眺めて「いてぇ」とつぶやいた。田沼達の笑い声が昇降口に消えていった。
「保健室行った方がいいんじゃね?」
「いやいや大丈夫」
 頼りなく笑う秀の顔を眺め、沸騰しかけた血液が急激に冷えていくのを感じた。力が抜けた。
「助かった」
「え、何が?」
 傷口に息を吹きかけながら痛そうに顔をしかめ、秀が訊いた。未来は生い茂る桜の木の下のいつものベンチに座った。
 あいつらから引き離してくれてよかった。
 ふたりを殴り倒したい衝動が、胃袋を突き破りそうになっていたのだった。

  ひと夏の生を謳歌するセミの大合唱が、田んぼを渡って聞こえてくる。窓際に座る未来は机に突っ伏して、まぶしい外を眺めていた。
 未来たち二年生の教室は西棟の二階で、窓からは、ゆったりと流れる綾寝川と、その豊かな水の恩恵を受けて広がる山里の町が見渡せた。友森山の頂上にある保養所の白い屋根が、真夏の光を跳ね返している。ふもとには、綾寝川の支流に沿っていくつかのオートキャンプ場があり、木立の間に車が数台止まっているのが見える。この町は都心からはほど良い距離があり、自然が満喫できる手ごろな場所として、夏休みにはキャンプや日帰りで訪れる人で、町はそこそこにぎやかになる。市も、町おこしの一環として、有り余る自然を利用しない手はなく、一年を通して様々な体験会を企画していた。湊も礼も、ボランティアでいくつかの体験教室にかかわっている。この夏もふたりは忙しいだろう。
 明るすぎる夏景色とセミの声、適度の満腹感に加えて、何の興味もない日本史の授業が、ただでさえ寝不足気味の未来の眠気を誘う。叱らない先生であることをいいことに、夏休みを前に浮かれる子どもたちで、教室はざわめいている。 
 隣の席の秀が、身を乗り出して話しかけてきた。
「未来、そういや、さっきの話、夢の続き?」
「ん? ああ…」
 秀は大きな目をぎょろりとさせて、探るように未来の顔を覗き込んだ。「なんなの? 詳しく話してみ」
「いいよ。もう」
「なんか眠そうじゃん。話してると目が覚めるぞ」
 いや、むしろこのまま熟睡させてくれと思う未来だったが、確かに口を動かしている方が、時間は早く過ぎるものだ。のっそりと体を起こすと、秀は椅子ごと近づいてきた。
「なに」
「なんだかさ、同じ夢みるんだよな。ここ三、四日」
「ふむ。どんな?」
「すっげー年寄りのじいさんが、こっちを見てんだよね。薄暗い部屋で」
 秀が唸りながら顔をしかめた。
「それだけで悪夢だな。んで?」
 未来は頬杖をつき、秀を横目で見た。
「昨日、なんか変だと思ったんだ。壁際に棚があって、いつもその上に花が活けてあるんだけど、最初その夢を見たときは、全部つぼみだった気がするんだ。それが、昨日は少し膨らんできたような感じだった」
「やばいね。進化する夢ってやつ?」
「あのじいさん、誰なんだろう…」
「知らないの?」
「全然」
 先生が咳ばらいをして振り返る。秀はそっと椅子を戻した。
「みんな少し静かにしようか」
 一瞬だけシンとなる。が、先生が黒板に向き直ると、またそこらじゅうで、不埒なざわめきが始まる。
「まあ夢って結局自分で作ってるんだからな。でもあれかな? ご先祖様じゃないの? 未来よう、もうすぐお盆だからちゃんと墓参りして下され~」「かもな」
 大あくびをしているところで、背中をつつかれた。封筒型にかわいく折られた紙が回ってきた。
“放課後東棟屋上の扉の前に来てね♡ 舞”
 未来は斜め後ろを振り返った。舞が大きな目をキラキラさせて、わざとらしくウインクしてきた。
「なに?」
 秀に渡すと、ちらっと眼を通し、指先でつまんで投げ返してきた。
「おそろしい。なんか企んでる」
              
 終礼のチャイムが鳴って、校内がにわかに騒がしくなった。駅前の学習塾に通う秀は、掃除当番の未来の肩をたたいて「おさきに!」と早々に教室を出た。いつもこっそり利用する人気のない二階の端のトイレで用を足し、階段を下ろうとすると、向かいの空き教室から田沼と真崎がぬっと現れた。「待ってたんだよ、野々浦君」
 秀は田沼に肩を抱かれ、すくみ上がった子犬のように、促されるまま北階段を上らされ、鍵のかかっていない三階の美術準備室に連れ込まれた。
 ドアを閉めると教室はむっとして、絵の具や紙のかびた匂いがする。田沼は「くせえな…」とつぶやいて、窓を少し開けた。カーテンがブワリとふくらむ。
「おお、いい風じゃん!」
 不吉な笑みを浮かべ、田沼は秀を椅子に突き飛ばした。
「悪いね~付き合ってもらっちゃって。ちょっと頼みがあってさぁ。野々浦君にしかできないことなんだぁ」
「な、何?」
 秀は椅子の背でぶつけた肘をさすりながら、体を縮めて田沼を見上げた。
「昨日ゲーセンで盛り上がっちゃってさ。なぁ、マッキ、今日何日?」
「十七日」
「なぁー、まだ半月もあんだよね。しかもこれから夏休みなのに、こづかいゼロ!」
「だ、だからなに」
 田沼は立ち上がり、椅子を秀の前に引きずってきて向き合うと、ドッカと座った。
「野々浦、おまえ頭悪いの? だからなに? じゃねーんだよ」
 田沼は眉間にしわを寄せて秀をにらみながら「まあ、いっか」と言って、秀の鼻先に不穏な顔を近づけた。
「ちょっと気になる話があってさあ。名津木未来ってあいつ、学区統合の前は高那小じゃなくて古至小にいたんだよな、おまえと一緒に。んでさあ、おれこの間、もと古至小のやつから聞いちゃったんだよね、名津木のこと」
 田村はプレゼントを待ちきれない子どものように、足をバタつかせる。
「さあ、昔何があったんでしょうーか。知ってんだろ? 野々浦君、キミ幼なじみだもんね」
「な、何のこと? 知らないけど」
「へぇーそうかな? じゃあ特別教えてやるよ。あいつさあ、とんでもないことしでかしてんだよ。小三の時」
 田村と真崎は顔を見合わせて、にやりと笑った。
「殺人…だぜ」
           
 子どもの数の減少に伴って、校舎は空き教室が目立つようになった。特に三階は西棟も東棟も文科系の部室やいくつかの準備室があるだけで、放課後は人気も少ない。
 未来は、東棟の三階からさらに屋上に出る階段を上っていた。舞が何を考えているのか別に興味はなかったが、無視したあとの機嫌の悪さを想像すると、そっちのほうがだるかった。
 踊り場を回って何段か上がったところで、上から声がした。
「遅かったぁ~。帰宅部のくせに」
 屋上への扉に寄り掛かっている舞の横に、女の子が立っていた。一組の子だ。顔は知っている。
「同じバスケ部の菜々美ちゃん。かわいいでしょ?」
 菜々美は伏し目がちに未来を見て、ペコリと頭を下げた。長い髪がサラリと揺れる。舞は「よし」と大きくうなずくと、階段を降りてきた。すれ違った舞は口をきつく結び、とても機嫌がいい風には見えなかったが、踊り場で振り返った時は、満面の笑みを浮かべていた。
「んじゃ。がんばれ菜々美! 先帰る」
「え~? 舞、待っててくれないの?」
 菜々美は甘ったるい声をあげた。
「なによぉ、ふたりで帰ればいいじゃん」
「じゃあ、ハッピーバーガーでポテト食べて待ってて。エビかつバーガーもいいよ。おごるから!」
「そう? まあいいけどさ」
 鼻歌を歌いながら階段を下りていく舞の気配が消えると、あたりは束の間シンとした。校内放送が教頭先生の呼び出しをしている。時折三階で人の声がする。
「あの、ごめんね。来てもらって」
「なに?」
「あの、名津木君、山根道場に通ってるんだってね。弟がさぁ、やっぱ通ってて。で、先月の大会に初めて応援に行ったらさ、名津木君がいて。びっくりしちゃった! 名津木君強いんだってね。弟に聞いたの。でも試合出ないんだって」
「で?」
「え?…と…。名津木君、誰か好きな子いたりする?」
「いない」
「ほんと? あの、それじゃ」
「誰も好きにならないし、おまえに興味もない」
              
 舞は二個目のエビかつバーガーを三十秒でたいらげ、ポテトを三本一気に口に入れた。
「ったく。なんなのあいつ。何様のつもりよ。やめなやめな! あんなヤツと付き合ったら脳が腐る」
「でもさぁ、好きな子いないんだって」
 ようやく泣き止んだ菜々美は、ほとんど溶けてしまったマンゴーシェイクをストローでくるくるかき回している。
「はぁ…、だから何なの? 興味ないって言われたんでしょう? 冷たい言い方!」
「そうなんだけど…、でも何だろ、かえって新鮮というか逆にカッコいいみたいな…あの暗さが…」
「ひぇー信じられない、その感覚」
「ううん!! なんかこう胸に来るんだな。私がそばにいて冷たい心を溶かしてあげる…みたいな」
 舞はポテトをつかむ手を止めて、まじまじと菜々美を眺めた。
「結構あんた神経太いね」
「ねぇ、舞は名津木君と幼馴染なんでしょ? あの子、前からあんな感じ?」
「暗いってこと?」
「うん。だって顔なんかハーフみたいにすごいカッコいいし、まつ毛長いの知ってる?」
「瞬きすると音がするからね」
「うそ! ほんとに?」」
「バーカ。うそだよ」
「ああでもわかる。そんな気がする。でも、ホント、なんか、かなり近寄りがたいよね。ああ、私はだからそこがいいんだけど」
 舞はポテトの袋を逆さに振って、すべてのカケラを口の中に落とし込み、ペーパーナプキンで口を拭くと、両手を合わせてごちそうさまをした。
「昔はあんなじゃなかったよ。明るくってさ。ほんと、かわいかった」

 遠くで音が聞こえる。さざ波のように押し寄せては引いていく。低く、高く、金属音のような、木の葉のざわめきのような。未来は、真っ暗な闇の中を音のするほうに進んで行く。
 またこの夢だ。
 薄明かりが近づき、遠くにあるぼんやりとした塊が、少しずつ形を成してくる。薄黒い塊には縞模様が見え、明るくなるにつれて、やがてそれは幾重にも重なった深いしわであり、塊は背後に光を受けた老人の顔であると分かる。
 映画館のスクリーンに映し出される映像のように、巨大に映る老人の顔は、暗闇に立つ未来の目の前に覆いかぶさってくる。
(誰だろう)
 未来はまじまじと老人の顔を見つめる。変わった髪形をしている。左右に分けた白髪を、耳の後ろでいったん束ね、それを頭のてっぺんで一つにまとめているらしい。逆光で顔は暗く、男か女かわからないが、未来が知りうるどの老人よりも高齢に違いなかった。
 老人は目の前にいるはずの未来には、目を留めることはない。だが探している。求めるものがこちら側に必ずあると、しわに埋もれた瞳に宿る、強い光がそう言っているのだ。
 未来は老人の背後に目を向けた。壁に燭台が取り付けてあって、蝋燭の明かりがゆらめいている。どんな素材でできている壁なのか、薄茶の肌に等高線のようなゆがんだ楕円の模様があり、ところどころその線の密になった中心が黒々として、目玉のように見える。
 今日もまた、甘い香りが鼻をかすめる。未来は恐る恐る視線を、視界の左下にある棚の上、花の置かれている場所に移す。
「!」
 バチッとまぶたが開いた。とたんに汗が噴き出してくる。たまらずにベッドから起き上がり、カーテンを開けた。開けっ放しの窓から新鮮な空気が部屋に流れ込んでくる。外はまだ青白く、森はひっそりと眠っている。
 窓枠に両手をかけて未来はつぶやいた。
「もうすぐ咲く…」
 未来はタンスからパンツを引っ張り出して、シャワーを浴びに部屋を出た。

怯える目

 キッチンの奥にある勝手口を大きく開ける。リビングのカーテンが揺れて、掃き出しの窓からいい風が入ってきた。建てられた当時としては珍しい対面式キッチンで、料理をしていても広い部屋が見渡せる。天井はいぶされたような茶色の梁がむき出しにされ、梁と同じ色の板張りの床から立ち上がる高い壁は、天井まで白い漆喰で仕上げられている。梁の下に取りつけられた大型のファンがゆっくりと回り、ちょっとした古カフェのような洒落た造りだ。
 にぎやかな野鳥の声が木立をぬって響き渡り、セミも騒がしく鳴き始めた。未来は卵を五個使って、大きなオムレツを作っていた。礼が育てたトマトを刻み、チーズも一緒に入れて、ふわふわに仕上げる。トマトの酸味がさわやかな、夏の朝の定番だ。ケトルが甲高い笛を吹く。湯が沸いた。
 ドアが開いて、キッチンに湊が入ってきた。
「おはよう未来。悪いな。寝坊した」
「おはよう。昨日遅かったの?」
「ほとんど徹夜したよ。はかどったかな…うん。結構進んだ」
 湊はコーヒー豆をスプーンですくい、ミルの中に入れた。スイッチを入れ、豆が砕けるのをじっと眺めている。目を開けっぱなしで眠っているのかもしれない。
「後で見に行ってもいい?」
「ああ。もちろん」
 大あくびをしてから姿勢を正し、湊はケトルからゆっくりとお湯をフィルターにそそぐ。雨の雫が、耕された黒土に一滴一滴しみ込むように、ゆっくり優しくそそいでいる。やがてふっくらと豆が膨らみ、いい香りが立ち上る。朝の香り。日常が始まる。
「香りは嫌いじゃないんだけどさ」
 レタスをちぎりながら、未来はつぶやいた。
「もうすぐわかるよ。未来にも」
 湊が笑う。未来は湊の涼しい目元が好きだ。長めの髪はボサボサで、徹夜明けの無精ひげを生やしながら、それでも日本人離れした端正な顔立ちを保っている。
「未来、礼を呼んできて」
 パンをトースターに入れて、未来がキッチンを出ようとすると、寝ぼけ眼の礼が起きてきた。ひざ丈くらいある紺色のTシャツの下に、すらりと白い足が伸びている。 
 礼はキッチンカウンターの丸椅子に腰を下ろし、長い指先で、コップにさしてあるパセリの葉と戯れながらあくびをした。つややかな髪が、肩の少し上でさらさらと動く。切れ長の大きな目にツンと高い鼻。あくびをしても様になる整った唇。「未来くんのおかあさんってきれいね」と同級生の女の子に言われ、誇らしく思った時も確かにあった。
「おはよう。ああ、お腹空いた」
「ちゃんと顔洗えよ」
 未来は皿を並べながら、ぶっきらぼうに声をかけた。
「ん、後で洗うわよ。いい香り。今日は何? モカ?」
「あたり!」
 湊はコーヒーをカップにそそぎ、礼の前にコトリと置いた。
「礼は美人だからね。顔なんて洗わなくていいんだよ、未来」
 カウンター越しに微笑み合う二人を、いつものように無視をする。
 未来がオムレツの皿を食卓に運ぼうとした時だった。肘がフライパンの取っ手に当たり、フライパンがガス台からずり落ちそうになった。未来は思わず片手で、まだ熱いフライパンの縁をつかんだ。
「あっち!」
 フライパンが床に落ちる音と、礼の叫ぶ声は同時だった。礼は弾丸のごとくリビングの吐き出しから庭に裸足で飛び出し、すぐにアロエの葉を数枚手にして戻ってきた。未来の横にしゃがみこむと、薄皮をむこうとしてやっきになり、肉厚の葉をつぎつぎと細い爪で破壊していく。
 水道の流水で指を冷やしながら、未来は冷めた目で礼を見下ろしていた。(また始まった)
 冷やした指の痛みが落ち着くと、未来は礼の手からアロエをひったくり、指先に当てた。
「見せて」
 礼はすっくと立ち上がり、両手を伸ばした。切羽詰まった顔で未来を睨みつける。大きな瞳が潤んでいるのを見て、未来が苛立ちを爆発させた。
「なに? だからただの火傷だろ? なんなんだよ。いつもほっとくくせに、こういうときだけ大げさなんだよ! そんなに心配なら火を使わせるな。飯作れ!」-
 湊が吹き出した。
「その通りだな。未来が正しい。どうする礼? これから食事作ってみる?」
 礼は細い肩を上下させて大きく息を吐くと、前髪をかき上げ、くるっと背を向けてテーブルについた。
「それは無理よ。だって、おいしいもの食べたいもの」
 湊はまた笑い、未来はため息をついた。
 まったくいつものことなのだ。愛されていることはわかっている。でもそれは、スポンジケーキのようにふんわり持続するものではなく、コンビニで買う手持ち花火のごとく、突然火を噴いて激しく燃え、あっという間に消えてしまうようなものだった。
 仕方がないと未来はとうにあきらめている。礼に母親の愛を求めても無理なのだ。礼は本当の親ではないのだから。
 未来の両親は未来が三歳の時、自宅が火事になり亡くなった。身寄りのなかった両親に代わり、母親の親友である礼が未来を引き取ったのだった。
 戸籍上は母と子であっても、未来は物心ついたころから、自分は礼の子どもではないと受け入れて育った。家族ではあるが母親ではなく、姉にしては愛情過多。このあやふやな関係は、礼が望んだものなのだ。
 未来はトーストとオムレツの乗ったプレートを持って、リビングのソファーに座った。
「未来?」
 礼が体を傾けて未来を呼んだ。トーストにかじりつきながら、未来が顔を上げると、礼はにっこり笑った。
「オムレツおいしいよ」
 未来は「ん」とうなずいて、パンをもぐもぐと噛みしめる。強く当たりすぎたかなと、少しかわいそうになった。だがすぐに心の中で首を振る。
(いや、いいんだって。あれくらい)
 中学生になり、ほんの少し子どもでなくなった未来には、今までは、ただ翻弄されていただけの礼の自分勝手な行動を、少しばかり後ろから眺めることが多くなった。そうして心から感心するのだ。恋人の湊は何と心の広い人間なのだろうと。

  朝食を終え、未来は制服に着がえた。リュックを背負い玄関で靴ひもを結んでいると、礼が背中に声をかけた。
「早いね、今日は」
「湊の絵、見てから行く」
「ああ、そう…」
 頼りない声の響きに、玄関のドアを開けながら未来は振り返った。礼はコーヒーを片手に廊下の壁に寄り掛かっている。未来と目が合うと、礼はにっこり微笑んだ。玄関から差す木漏れ日が石の土間に反射して、礼の顔をチラチラ照らす。ふと胸の中に小さな異物を吸い込んだような気がした。礼の笑顔がひどく儚げに感じたからかもしれない。リビングから七時のニュースが聞こえてくる。
「髪長くなったね。そろそろ切る?」
「いいよ。今がちょうどいい」
「そうか。そう、そうだったな…」
「そうだったって…何が?」
 いつもの声なのに違和感が消えない。
「そのくらいが似合うんだった、ってことだろ? 礼」
 湊がリビングから出てきて、礼の横をすり抜けた。
「行くぞ、未来。解説してやる」 

  湊のアトリエは、広い庭の西の端にある。未来の家は、山の中腹を開いた五百坪ほどの敷地の中に建てられている。礼の実家は昔からの資産家であり、父親は開業医でもあった。礼は医大を出てはいるものの、父親の後は継がず、漢方医として大学の講師をしながら薬草学の研究を重ねている。ここには、礼の父親が亡くなった時、所有する土地を売って移り住んだらしい。未来が一緒に暮らし始めるずっと前のことだ。
 家の建物の西側、敷地の五分の三は、礼の研究する薬草の畑やビニールハウスで占められている。その一番端に大きなプレハブが建てられている。そこが新進気鋭の若手日本画家、摩丘湊のアトリエだ。
 百号以上のパネルを運ぶため、入り口のドアは大きく、アトリエというよりも、倉庫と言ったほうがぴったりくる。中に入ると壁一面に立てかけられた大きな絵が目に飛び込んできた。どれも一辺が二メートル近くはある大きい正方形の絵だ。未来は靴を脱いで、三十畳の板張りの床に上がった。足元には色とりどりの絵の具皿が、何十皿も散乱している。
 未来は小さなころからこの場所が好きだ。湊が絵の具皿の上で様々な色を指で混ぜるしぐさや、皿に落とす膠の匂い、絵の上をこする筆の音や態勢を変える湊の衣擦れの音。シンと落ち着いた空気がここには満ちている。日本画は絵の具が垂れやすく、普通は寝かせて描かれることが多い。大きなパネルの場合は端から端に板を渡し、ちょうど橋の上から筆を下ろすように、中央の画面を埋めていく。未来はその板の上が大好きだった。湊の描くものはほとんどが抽象だった。大きなパネルは未来にとって、宇宙であったり、恐ろしい底なし沼であったり、時として異次元の入り口に見えたりした。だからその上にかかる細い橋を渡るとき、未来は命がけの冒険家だった。立ち止まり見下ろすと、取り巻く色と形に吸い込まれそうになる。美しさに心が躍ることもあった。
「絵皿踏むなよ」
 皿の中には様々な色が乗せられている。リリークと題された今回の連作は、近くで見ればたくさんの色が重ねられているのがわかるのだが、一見してどれも薄暗く、まるで洞窟の内部のようで、左右が岩肌のように体に迫って来る。そしてほぼすべてに分かれ道らしきものが描かれているのだ。どの絵も同じように見えるのだが、岩壁だと思って観れば、一枚一枚に、狭さや突き出した岩らしきものの形状など、しっかり違いがある。スランプだと言ってもう三か月も前からそのままで、描けと言われたら描けそうなくらい未来の目に焼きついていた。
「秋に個展をすることになった」
「え? すごいじゃん」
 湊は床に寝かせてある絵を空いている壁に立てかけた。他の七枚とは違う、鮮やかな青が重ねられている。未来は思わず息を呑んだ。
「すげー! これ、きれいだな」
「最後の一枚だよ。もうすぐ完成ってとこだな」
 ぐるりと床を取り囲んだ八枚の絵に描かれる分かれ道は、分岐点が真ん中ではなく、必ず左右どちらかに寄っていて、まるで進むべき道を示しているようだ。最後の絵は左側が広く、美しい青はそちらから差し込んでいる。「これが最後か。意味深じゃん」
「おまえならどっちに行く?」
 湊は腕組みをして未来を見た。
「ってことは、やっぱ道か。うーん、普通に考えて、明るいほうかな」
「ああ、未来死す」
「なんで?」
「明るいから左? よく考えろよ。光としてはあまりにもきれいだと思わないか? 美しいものには棘があるっていうだろう? 罠かもしれない」「罠? ゲームなの? そういう絵?」
「でも、正解は左。未来お見事!」
「なにそれ! じゃあ右には何があんだよ。モンスターとかが待ってるとか?」
「うーん、わからないな。そうかもしれない。そうだな、そういうことにするか」
「はぁー? なんだそれ」
 湊は笑いながら、アトリエの隅にある冷蔵庫からマンゴープリンと杏仁豆腐を出してきた。
「どっちがいい?」
「杏仁豆腐」
「おっ、いいほう選んだな! うまいんだ、このメーカーの」
 未来は畳の上にあぐらを組んで座り、そっと上蓋をはずした。アーモンドのいい香りがプンと鼻をつく。湊はマンゴープリンを食べながらパイプ椅子に腰かけた。
「冗談だよ。そんな絵じゃない。おれは分岐点が好きなんだ。どっちに行くかワクワクするだろう? どちらも同じ風景のはずがない。だけど選んでしまったらその風景しか知ることができないんだ。それが自分の道になる。だから自分で決める」
 未来は上目づかいで湊を見た。
「今、いいこと言ったって思ってる?」
「言っただろ?」
「じゃあ礼と結婚しないのは、そういう道を選んだんだ」
「おっと、いきなりだなあ」
 湊はマンゴープリンから未来に視線を移した。
「だって、おれが引き取られる前から一緒にいるのに。もしかしておれのせい?」
「なにおまえ、随分大人になったな。そんなこと考えたりする?」
 湊は目を丸くしたが 嬉しそうにも見えた。
「言っとくが、おまえの存在は、まったく関係ない。まあでも、結婚してたほうがよかったかな? おまえにとっては。家族三人。父さん母さん、一人息子ってことだ」
「なんか、想像したくねー。湊をおとうさんって呼ぶ?」
「まあ、おれも呼ばれたくないけどな」
 湊はうなずきスプーンを口に運ぶ。
 大きなカメ虫が、絵皿と絵皿の隙間を歩いていた。膝の下に入り込もうとしたそいつを、人差し指で弾き飛ばしてやった。青色の絵皿に飛ばされたカメムシは、必死に這い上がり、膠で濃く溶かれた青い衣をまとって、ヨタヨタと酔っ払いのように皿の向こうに消えていった。
「まあ、そうだな、まずはこの個展が成功して、それで画商も増えて、ちゃんと生活できるめどがついたらだな。いつまでも礼に甘えられない。もうカルチャーで教えるのも飽きたしね」
「ようやく結婚するんだ」
「ああ」
「湊は礼のどこがいいの? あんなわがまま」
 湊はフフンと鼻で笑った。
「愚問だな、未来。全部だ」
「あ、そう。訊いて損した」
 ははっと笑い声を上げ、湊は未来を見つめた。
「礼がいてくれたから、今おれがここにいる。あいつはおれの支えなんだ」「へえ…」
 未来は憮然として、突如として真摯な眼差しを向ける湊を眺めた。
 湊は食べ終わったカップを未来から回収し、ごみ箱に放り込んでから、ニヤリと顔を崩した。
「未来は?」
「え?」
「未来は礼のどこが好きなんだ?」
「なに言ってんの? おれは…別に」
「別になんだー?」
 そう言いながら湊は未来の後ろに回り、いきなり羽交い絞めにして、わきの下をくすぐり始めた。未来は体をよじりながら悲鳴混じりの笑い声をあげる。近くにあった絵皿がひっくり返るのもかまわず、湊は背中から両足で未来の腹を挟み込み、転げまわりながらくすぐりまくる。
「やめろー!」
「別に、心が通じ合ってるから言葉にしたくないってか? おまえたち相思相愛だからなー。湊さんやきもち焼いちゃうぞー!」
「冗談いうな! ホントやめろって」
 未来はようやく湊の手足を振りほどき、グシャグシャになった長い前髪をかき上げて反撃に出た。
「湊はマダムキラーなんだってな。ヤバいじゃん」
 湊は吹き出した。
「死語だな。久しぶりに聞いたよ、その単語。誰が言った?」
「中さん」
「あいつ…」
 今度は湊が頭をグシャグシャと掻いた。
「どんだけおれに恨みがあるんだ。まあ、そうだな。そういうことにしておくよ。うん、何人かは泣かせるだろうけどね、仕方がない。だけど、いいな」
 湊は未来を睨み、再びニヤリとした。
「礼には言うな」
「ハイハイ」
 呆れて笑うしかなかない。未来は立ち上がり、もう一度部屋を取り巻く大きなキャンバスを見回した。壮観だった。
「ほんと、かっこいいよ」
「そうか? それはうれしいな」
「いまさらだけど、リリークって、どういう意味?」
「うーん、そうだな…。過去の出来事や記憶の実体化…ってとこか」
「過去の実体化…か。なんか面白そうじゃん。何語?」
「古い民族の言葉だ」
「ふうん。よくそんな言葉見つけてくるな。リリークか」
 未来は美しい青が重ねられた最後の一枚を見つめた。
「これって湊の記憶の実体化ってこと?」
「うーん」
 湊は首をひねった。
「どっちかって言うと、もはや夢のようなものだな」 
「夢…」
 突然、老人の顔と膨らんだつぼみが浮かび、胸が騒ぐ。湊が首を傾けた。「どうした?」
「変な夢を見るんだよね」
「変なって…どんな?」
 未来は首を振った。
「いや、何でもない。ただの夢だから」

  まだ七時過ぎだというのに、もうすでに日差しが痛いほど強い。開かれた敷地の周りは森で囲まれ、その向こうに太陽の光を浴びた夏見山の尾根が重なって見える。空気はまだ早朝のもので、新鮮な湿り気を帯びていた。未来はごく自然に深呼吸をした。
 薬草のビニールハウスから礼が顔を出した。Tシャツとジーパンに長めのエプロンと、いつもの作業スタイルに着替えている。
「あら未来、まだいたの?」
「うん」
「今日道場行くよね。遅くなるね」
「ん。いってきます」
 玄関前の桜の木でミンミンゼミが鳴いている。大きなリュックを背負い、砂利道を大股で下り始めると、礼が声をかけた。
「中根に言っといて。明日のバーべキューよろしくって」
 未来は歩きながら振り返った。
「モーさんも来るんだろ?」
「そう。もちろん」
 桜の下で手を振る礼の顔は影の中にあり、はっきり見えたわけではないが、なんだか笑顔ではない気がした。今朝の礼はやっぱり変だ…。
 だがそんな気持ちはスマホを開いた途端ふっとんだ。
「やばい。アトリエでゆっくりしすぎた」
 このまま普通に下ると間に合わない。未来は友森山の舗装道路に出る前に道を外れ、森に入った。一気に沢まで降りて、そこから沢伝いに隣の山に入れば、弓鳴川のオートキャンプ場に出る。朝露と濡れた腐葉土に靴やズボンが汚れることを気にしなければ、二十分は短縮できる。
 未来にとって、森は庭の延長だった。このあたりは山が深く、ひとたび方向を間違えれば簡単に遭難する。また、いたるところに沢がありマムシが多く、そのため未来は幼い頃は、家の周りの林以外は、山に入ることは禁止されていた。
 未来は小学三年生の時、学校に行かなくなった。そんな未来を湊は森に連れてきた。
 湊の後について初めて通学路を外れ、深い山に足を踏み入れると、そこには未来の知らない世界が広がっていた。落ち葉の下に住む虫や、キノコの生えたブナの倒木。シダの根元をすり抜けるヘビ。野ネズミをくわえたタヌキに出くわしたこともある。町の森林ボランティアの一員でもある湊は、森で暮らす術を何でも知っていた。火の起こし方を教わり、森でテントを張って寝たこともある。六年生になると、湊とボランティアの仲間と共に、間伐や枝払いの手伝いもした。春の芽吹きと夏の茂り、秋の実りと冬の静寂。森はあまりにも豊かだった。
 不登校になった四年生の間は森に通った。その間に、通っていた古至小学校は、児童数の減少により廃校が決まり、児童は近隣の学校に編入することになった。未来と秀、舞の三人は、高那学区とのほとんど境目に家があったので、当然そちらに吸収された。未来が再び学校に通い始めたのは、高那小学校に通う五年生になった春だった。進学式の前の日、未来がランドセルを背負ってみせると、ふたりとも、ただにっこり笑ってくれた。 
 秀たちは別として、偶然にも周りに未来を知る子どもがいなくなった。だが、だからといって、別に学校に戻りたかったわけではなかった。それは中学に通う今も変わらない。山を下り、国道が透けて見えるところまで来ると、目の前に広がる現実の世界に色はなく、漠然と時間だけが過ぎる、だるい一日が始まるのだ。それでも毎日学校に通うのは、ただ礼と湊を安心させるためだけだった。

  森はマイナスイオンたっぷりで、自然と呼吸が深くなる。ひときわ高く響き渡るのはウグイスの声だ。シダの葉に溜まった朝露を散らして、未来は軽快に広葉樹の木立を抜け斜面を滑り降りた。
 木津沢の手前、目印の大杉に手をかけて、右に勢いよく曲がった瞬間だった。渾身の力を込めて足を踏ん張り、未来は止まった。
 イノシシ!
 体長百二、三十センチ近くは優にある超大型。
 不覚だった。時間に追われて気配を感じることができなかった。
(どうする?)
 全身が総毛立つ。相手も突然現れた未来に仰天したのだろう。でかい顔のあたりからカチカチと不吉な音が漏れてくる。興奮して長い牙を嚙合わせているのだ。
 ヤバイ! そう感じたと同時に、イノシシは突進してきた。スレスレでよけたが、長く反り上がった牙が左ももの外側をかすり、破けたズボンから裂けた白い肉がのぞく。真っ赤な血がみるみる盛り上がり、火傷のような痛みが体を走る。
(くっそ! やったな)
 恐怖と共に湧き上がったのは、激しい怒りだった。
 イノシシは少し先で向き直り、未来に対峙した。巨大な頭に不釣り合いの小さな目を血走らせ、歯をすり合わせて未来を睨む。未来はゆっくりとリュックを肩から外した。
 山でイノシシに遭遇したら、後ろを向いて逃げてはいけない。目をそらさず、静かに後ずさりすること。小学生の頃、授業でマタギのおじさんが来て教えてくれた。だが、もし間近で突然出会ったら、時速四十キロのイノシシからは到底逃げられない。これは湊のボランティア仲間が言っていたことだ。そうなれば、もう、戦うしかない。空手道場の中根なら迷わずそうするだろう。
 イノシシから放たれる気が、未来の毛穴に突き刺さる。体が火のように熱い。血管が絞られて、滞った血液が一気に爆流する瞬間を待っている。口がカラカラに乾き、声にならない声で未来は叫んだ
「来るなら来い!」
 そうだ。戦うしかない。
 突っ込んでくるあいつと、正面からぶつかるのだけは避けなければ。あの牙をまともに食らうと肉がえぐられる。直前でかわし、馬乗りになって押し倒す。その後は…どうにかする!
 大量の汗で手のひらがぬれる。心臓が破裂しそうなくらい胸を打つ。何年か前、鳴坂商店のばあちゃんが山で子連れのイノシシに遭遇し、腹を牙で刺されて三日後に命を落とした事件がちらりと頭をよぎった。
(大丈夫、おれは強い…)
 イノシシは鼻を膨らませ、太い首をブルブルと震わせる。巨体を支えるには合点のいかない細い足を踏み鳴らし、まさに点火直前の爆弾のようだ。
(来い! 早く突進してこい!)
 激しい闘争心が未来を貫いていた。イノシシもこちらをうかがっているのか、なかなか向かってこようとはしない。極度の緊張状態のままどのくらい時間がたったのだろう。睨み合うイノシシの目に、ふと未来の心が粟立った。
(あれ、なんか…この目、おれ、知ってる…)
 その瞬間、大波に飲まれるように、未来は遠い記憶の中に引きずり戻された。
 こぶしを握り正面を睨んで立つ子ども。
 怒りに満ちたその瞳の奥に、怯えて震える影がある。
 鋭い痛みが未来の胸をえぐり、胃酸が逆流して吐きそうになった。絶望と恐怖が宿る哀れな目で自分を睨む、小さな子ども。それはいつかの日の、鏡の中の自分だった。
 押さえようもない悲しみが頭蓋骨までこみ上げて、脳みその奥に痛みが走る。幼い頃自分の心の奥底に忍び込んだ暗闇。もうごまかすことなどできやしない。凍りついた心から、冷たい涙が滲み出して喉を下る。ずっと辛かった。どうしようもなかった。
(もういい。楽になりたい)
 礼の笑顔、湊の温かい胸、湯気の上がるキッチン、今日まで重ねられた大切な日常が目の前をかすめて消えていく。その後には、無音の世界にイノシシと自分しかいなかった。
「ぐああああああああ」
 魂の全部を吐き出すように、未来はうなり声をあげた。イノシシに向かって体を前に傾かせる。
 これで終わる。
 足を一歩踏み出した、その時。突如轟音が響き渡り、そこらじゅうの木立がゆさゆさと大きく揺れ動いた。ヘリコプターが低空で森の上空を通り過ぎていったのだ。それに驚いたイノシシはブワッと声をあげ、くるりと後ろを向いて土を蹴りあげながら沢の奥に消えていった。
 すべてが一瞬で幕を閉じた。
 遠ざかるエンジン音と共に力が抜け、未来は膝を折って崩れ落ち、胃の中のものを吐いた。両腕でかろうじて体を支える。額から流れる汗が、ぶちまけられた朝食のトマトや卵の上にボトボトと落ちた。胃酸のすえた匂いがする。手のひらの下の腐葉土を握りしめ、未来は身体の震えを抑えた。
 ようやくの思いでその場から離れると、群生するつゆ草の青い花の中に仰向けに転がって、しばらくの間未来は目を閉じていた。
 アカゲラが木の幹をつついている。遠くでセミの声もする。湿った青草の匂い。虫の這いずる音。森は変わらずに豊かな命の営みの中にあった。

  流れ出た血で、ズボンがべったりと張り付いている。案外傷は浅いようだった。未来は沢に降り、行政お墨付きの飲める清水で口をすすぎ、傷口を洗った。
 木津沢伝いに山を下り、弓鳴川のキャンプ場に出た。何台か車が止まっていて、木立の間に色とりどりのテントを張っている。朝食の匂いが漂い、テーブルをはさんで座っているカップルが、幸せそうに笑っていた。共同の炊事場から煙が上がり、数人のグループがみんなで煮炊きをしているらしく、それぞれに勝手な注文をしては楽しげに声を張り上げている。枝を広げた緑の隙間から真っ青な空がのぞき、野鳥の声がのどかなキャンプ場に響き渡る。ついさっきの出来事とこの穏やかな空間と、どちらも現実であることに、未来はしばらく戸惑っていた。さっき、イノシシに向かって踏み出そうとした一歩は、この平和な日常のどこにも繋がってはいないのだ。
 未来は目立たないように山際を歩き、キャンプ場の入り口を避けて川を渡りバス通りに出た。傷が疼く。今の自分にはこの痛みだけが真実であり、目の前にある道をただひたすら歩いていくしかない。どこに向かって? 
 未来はふっとため息をついた。
 とりあえず今は学校に。
 資材置き場の角を左に曲がる。白い校舎は東側の壁を朝の光にさらして、昨日と同じように建っていた。礼はまだ家にいる時間だ。知ればきっと大騒ぎになる。傷もたいしたことはなさそうだし、家に戻ることは考えなかった。
 学校についたのは、始業時間を十分過ぎたころだった。山から転げ落ちたことにして保健室の先生に消毒をしてもらった。大福のように白く膨らんだ優しい顔立の女の先生だ。
「病院行ったほうがいいね。お家に連絡するよ」
「いや、いいよ、連絡は。帰りに自分で病院行くから」
「そう、でも早い方がいいけど」
「大丈夫だって。そんなに深い傷じゃないって」 
「うん、まあ、わかった。必ず行くんだよ」
 先生は老眼鏡を外し、椅子から立ち上がって戸棚の中からえんじ色のジャージを出してきた。
「それじゃ、ズボン脱いで、これ履いてなさい」
「え? だって、だれの?」
 どこの学校のジャージだろう。ラインも何も入っていない古典の香り溢れるデザインだ。
「落とし物。ちゃんと洗ってあるから大丈夫だよ。破れて血の付いたズボン履いてるよりましでしょ。ほら、ホームルーム終わるよ、急いで急いで。ズボン預かっておくから帰りに寄るんだよ」
 先生は、しぶしぶジャージに履き替えた未来の背中を両手で軽く押して、廊下に送り出した。
 大げさにまかれた包帯で、足がうまく運ばない。病院に行く気はなかった。というより、どうやって診療を受ければよいか、未来は知らなかった。生まれてこれまで、医者にかかったことがない。それは特に健康だったからではなく、熱を出しても、けがをしても、すべて礼が診て手当てをしていたからだった。
 未来はイノシシから受けたこの傷を見て、礼がどう反応するか、思い浮かべるだけで憂鬱になった。今朝のあんな軽い火傷でさえ、ああなのだ。
 教室に行くのも授業を受けるのもすべて面倒くさく、せめて遠周りをして、ついでにトイレにでも寄ろう。未来は一番離れた南階段を、なるべくゆっくりと上った。

  コンクリートのひんやりした壁の隅に追い込まれて、秀は身を固くしていた。
「もう無理だよ。これだっておれの全財産なんだから」
「だからさあ、言ってんじゃん。今、夏! これから夏休み。ふ!ざ!け!ん!なよ。これでどうやって過ごせっていうわけさ」
 田沼は秀の耳元で声を荒げた。
「そんなこと、ぼくは…」
「いいのかよ。あのこと。困るだろう? おまえがしゃべったって知れ渡ったら」
 秀は目を潤ませて下を向いた。
「まあ今日はこれでいいか。明日もう少し頼むわ。昨日のとこで放課後待ってっから。おまえんち、いろんなとこに土地持ってて、けっこう金持ちらしいじゃん」
 田沼は秀の薄い胸に握りこぶしをグイっと押しつけて、トイレから出て行った。真崎は洗面台に唾を吐いて秀をひと睨みし、田沼に続いてドアの向こうに消えた。消毒薬の匂いが鼻を刺す。秀は鏡に向かってため息をつき、そっとドアを開け廊下に出た。
「おい」
 振り向くと、未来がいた。 

 

幼なじみ

「うわ! びっくりした。未来、なにしてるの? なに変なジャージなんか着て。どうかしたの?」
 未来は秀の腕を取り、三階に続く階段を二、三段目まで引きずりあげた。「なにゆすられてんだよ? 金渡してただろう」
「なんのこと?」
「全部聞こえた。あの事ってなに? おまえがしゃべるって、なんのことだ」
「未来には関係ないよ」
 未来は秀の襟元をつかんだ。必要以上に力が入る。細い秀の首はちょっと押すだけで骨が折れそうだ。
「話せよ」
 顔を歪ませた秀は、観念して、昨日の放課後の出来事を話し始めた。

 「さつじん」
 田沼の言葉を聞いて、秀は顔をひきつらせた。
「違う…あれは…」
「やっぱ知ってんだ」
 田沼はニヤリと笑い、立ち上がった。
「へぇー、いいこと聞いた。マッキ、おまえも聞いたよな」
 真崎は抑揚のない声で答えた。
「聞いた、聞いた。名津木、人殺してんだって? やべーな」
「野々浦、おまえ友達なのにひどいこと言うよなぁ。ほんとかよ、名津木って殺人者なんだぁ」
「え? 何? なに言ってるんだよ」
「いやあ、こわい! おまえしか知らない秘密だもんな。みんなに広まったら出所は、野々浦君、君しかいないからな。やばいよ、もう名津木君とは友達じゃいられないー!」
「やめてよ、おれ何も言ってないじゃないか」
 田沼は秀の前髪をつかみあげ、妙につるんとした顔を近づけた。
「だからさぁ、くれるもんくれれば黙っててやるって。野々浦君が言ってたよーなんてこと」

  グオオオオーン
 大音響が廊下に響き渡る。未来が防火扉を殴ったのだ。廊下に出ていた何人かが、遠くからこちらをうかがっている。未来はおびえて縮こまる秀を残し、田沼達がいる北の端の一組の教室に向かった。
(ぶち殺す)
 三組の入口から出てきた舞に目もくれず、未来は大股で通り過ぎる。
「未来、どうしたの?」
 舞は未来の後ろから不安げについてきた。
 未来は一組の後ろのドアに手をかけて、おもいきり右に引いた。バーンという音で教室内が静まり返る。廊下にいた舞たちも凍りついた。ざっと見渡したところ田沼達はいない。ふたりを探して素早く動く視線の先に、緊張して自分を見つめる菜々美がいた。
 ガラスが割れるように一瞬で我に返り、未来はクラス中の生徒に注目されていることに気がついた。
(くそっ)
 無言で一組を離れると、どよめきが後ろからついてくる。三組に戻り席に着いた。少しして、秀も隣の席にそっと座った。十五分休みの間、誰もが未来を遠巻きにして、舞さえ話しかけてはこなかった。
 左のももが疼く。ナイフでそぎ取って、教壇の上にぶちまけてやりたいと思うほど、今の未来には、目の前に存在する何でもかんでもが、吐き気がするほど腹立たしかった。

 放送委員会による「思い入れの一曲」で弁当の時間が始まる。一年女子の「初めてカラオケで歌った曲」
 小学校のころ流行っていた、聞き覚えのある歌が流れだした。
 未来は中庭のいつものベンチで、さっき買ったなかよし堂のクリームパンを食べていた。怒りと共に考えることがありすぎて、午前中は泥にはまった魚のように、窒息寸前だった。さすがにもう気持ちは落ち着いてはいたが、食欲はなかった。なかよし堂はパン屋のくせに、パン生地がパサついてまずい。初めて買ったクリームパンだったが、クリームもノリみたいに口の中でもったりする。この分じゃ、ふたつめのメロンパンも期待できない。
 顔をしかめ、ため息をつくと、秀が菜園の脇を弁当を抱えて歩いてくるのが見えた。
「いい? となり…」
「ん」
 秀は弁当を広げ、黙々と食べ始める。未来は観念して口を開いた。
「悪い。おれのせいで」
「いいよ、いいよ」
 秀はケチャップのついた口をほっと緩ませた。
「いくら取られた?」
「そんな大した額じゃないって。おれの小遣いなんだから。あいつら、あんなんじゃ全然遊べないよ」
「言わせときゃいいんだ。おれは構わないし。秀がしゃべったなんて思わねーよ。ていうか、しゃべったっていいんだよ。別に」
「そんなこと言うなよ。おれがいやなんだ。おれがしゃべったなんて未来は思わないだろうけどさ、そうじゃなくて、うわさが広まるのがいやなんだ。未来、また変な目で見られるじゃん」
 未来はパンを口元から離し、背中を丸めて弁当を食べ続ける秀の横顔を眺めた。
「…なんで? おまえに関係ないだろ」
 秀が顔をあげ、ふたりは一瞬見つめ合った。
「だって…友達じゃん。おれたち」
 え? 
 パンで満たされるはずの胃が、突然砂を詰め込まれたように重苦しくなる。
「…違う? あれ?」
 顔を曇らせた未来に、秀は戸惑ったようにあいまいに笑った。
「友達…じゃん」
 未来はパサついたパンを無理やり口に入れ、メロンパンをビニール袋に戻した。
 (冗談だろ?)
 この空間から今すぐ脱出しないと、窒息する。
 秀は慌てて言葉を続けた。
「ほら小学校の頃、おれよくからかわれてただろう? 体こんなだし。そんで、おれが泣いてると、未来、いっつもそばに来てくれて、一緒にずっといてくれた。一回なんて、あいつらに飛びかかっていって、ぼこぼこ殴って泣かしてさ。うれしかったよ。ほんと。だからおれ、未来とはずっと友達でいようって…」 
 未来はおもわず鼻で笑った。ガキンチョの時の話だ。パンが喉につまり牛乳で流し込む。マジで窒息するところだ。未来はそのまま牛乳を一気に飲み干した。
 友達。冷蔵庫の片隅で賞味期限が切れた食べかけのヨーグルトのような臭い言葉だ。実態のない友情なんていうあやふやな感情に引きずり回されて、そのたびに笑ったり泣いたり、振り子のように揺さぶられ、神経をすり減らすだけの愚かな関係。
 未来は、戻したはずの二つ目のパンを引っ張り出し、乱暴に袋を開けてかぶりついた。もぐもぐと咀嚼しながら、心の中でもう一度確認する。
 秀と一緒にいることが多いのは、自分が望んでいるからじゃない。気がつくと秀はいつも横にいて、自分にはそれが別に嫌ではない。それだけなのだ。
(なのに、なに勝手に友達にしてくれてるんだよ)
 怒りがうっすらと腹の中に広がっていく。メロンパンもやっぱりまずい。口の中の水分がどんどん吸い取られ、未来は空の牛乳パックを握りしめた。未来は気弱に笑い続ける秀の顔を上目づかいで睨んだ。
「おれ、おまえのために別に、何もしてやるつもりないよ。だからおまえからも別に望まない」
「そんなこと…」
 秀はごくりとつばを飲み込んだ。華奢な首の、上下するのどぼとけを見て、未来はさらに苛立った。
(かばい合って生きたいっていうこと? 友達だからって吐き気を我慢して、ごっこ遊びに付き合えってか?)
 未来は冷酷な気分で秀を眺めた。
(わからせてやろうか…)
 読み終わった雑誌を机の上に放り出すかのように言った。
「おまえ、ただの幼なじみだよ」
「ただのって…」
「ただの、だよ」
「そうだけど…」
「ラクだからいるだけだ」
 秀は明らかに傷ついた顔で箸を持つ手を下げた。その様子に満足した瞬間、胸の奥がチクリとした。その微かな痛みを飲み込もうと、未来は残りのメロンパンを口いっぱいに入れ込んだ。

  校内を流れる音楽は、ちょっと前に流行ったアニメソングに変わった。アオスジアゲハが中庭を静かに大きく舞っている。菜園にはトマトやピーマンが、艶々と太陽の光を受けて、食卓にのぼる時を待っている。隣の畝には、葉っぱの影で収穫の時を逃した運の悪いキュウリが、無念そうに巨大化してぶら下がっていた。日差しが半端なく強い。今日こそ梅雨明け宣言がされるかもしれない。明後日は終業式。夏休みが始まるのだ。
 中庭の校舎に挟まれた青い空の高いところを、飛行機が銀色の光を跳ね返して横切っていった。遅れて届くエンジン音が遠ざかると、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
「仲がよろしいこと」 
 後ろから声をかけてきたのは舞だった。秀は幽霊のようにフワッと立ち上がった。
「同級生って言われなくてよかったよ。幼なじみなら結構いいよ」
 秀は弁当を包んであったバンダナをつかみ、裸のままの弁当箱を小脇に抱えて足早に中庭を横切って行った。
「何かあったの?」
 めずらしく心配そうな声を出して秀の背中を見送ると、舞は下を向いている未来の顔を、体を斜めにして覗き込んだ。
 美人とはいえないが、二重の目がクリッと大きくて、愛嬌のあるかわいい顔をしている。目が大きいところは似ているが、二卵性だけあって、あとは体格も性格も秀と舞は正反対。未来は並んだ二人を眺める度、入れ替わればお互いどんなにか幸せだろうにと、何度笑いを飲み込んだか知れない。「足、大丈夫?」
「別に、何ともない。向こう行けよ」
 未来は眉間にしわを寄せて横を向いた。
「あのさあ」
 舞は腕を組んで、しっかとまたを開き、未来の前に仁王立ちになった。ミニ丈のスカートから出た逞しいふとももが、まったくもってうっとうしい。見上げると、舞は下あごを突き出し、鼻の穴を最大級に広げていた。
(なんだよ、このブス!)
 未来が渾身の力を込めて睨みつけた瞬間、舞が上からぶっとい声を打ち下ろした。
「だっせえ昭和のおっさんジャージはいて、カッコつけてんじゃねーぞ」
(そうだった!)
 未来は吹き出し、舞もカラカラ笑い出した。
「よかった。朝からすっごい怖い顔してたから」
 舞は元気の塊のようだ。未来はまぶしそうに目を伏せた。
「舞、変わらねーな。秀も…だけど」
「そう? 変わったよ。ほら」
 舞はスカートの裾をちょっとつまみ上げ、太い足をさらに押し出してウインクした。
「ばっかじゃねーの? ほんとに変わってないよ」
「はあ、失礼ね」
「おれは…変わったんだ」
 誰かが二階の教室から中庭にカバンを落とされたらしい。中身が散乱し、まわりの生徒たちが面白そうにワッと群がる。上から持ち主が叫びまくり、大騒ぎになっている。
「そうだね、変わったかも。でも中身は変わってない」
 舞は語尾に力をこめて、未来をまっすぐに見つめた。未来はその視線を脇に追いやり下を向いた。
「前のおれはもういないんだ」
「なにそれ」
「とっくの昔にいねーんだよ! おまえら、わかってるくせに、気持ち押しつけんなよ」
 未来は声を荒げて立ち上がった。舞は顔をゆがめて未来を見上げている。唇を噛んで今にも泣きそうな顔だった。未来は舌打ちをして天を仰ぎながら、大きくため息を吐いた。無言でベンチを離れる。
「なら、あの時」
 舞が走ってきて、後ろから未来の腕をつかんだ。
「なんで助けてくれたんだよ」
「は? 何の話?」
「西島先輩ボコったの、未来だろ」
 未来は構わず歩きだす。舞は前に回り込んだ。
「後輩の子にしつこくしてさ、いやだって相談受けたから、私、話しつけようって思って、そしたら手首掴まれて、すんごい力で。で…、あいつ、私にキスしようとしたんだよ。そしたら未来、来てくれたじゃん。おまえは帰れって私に怒鳴って。その次の日だよね、先輩入院したの。用水路に落ちたなんて嘘ついてさ。ほんとは未来なんでしょう?」
 一気にまくし立て、荒い息をして舞は未来を見つめた。
「知らねーよ。夢じゃねーの?」
「ばか!」
 舞はうるんだ大きな目で未来を睨んだ。太陽が真上からふたりをじりじりと焼き付ける。流れ落ちる汗で、切りそろえられた舞の前髪は濡れていた。 
 体育館の方から軽やかに話をしながら近づいてきた女子たちが、ふたりの様子に気付き、顔を見合わせながら薄笑いを浮かべて通り過ぎた。未来は大きく息を吐いた。  
「ちょっと話して別れたんだよ。それだけだって」 
「うそ!」
「ならそう思っていればいいじゃん」
「そう思ってるわよ」
 そう言い放ち、舞はくるりと背を向けて歩き出して、すぐまた振り向いた。
「未来は絶対変わってない。優しいし、ほんとは正義感の塊なくせに」
 舞の姿が昇降口に消えると、未来はベンチに戻り、ぐったりと肩を落とした。体中の力が地面に引っ張られ抜けていく。五時間目の始まりを知らせるチャイムが鳴った。生徒たちがダラダラと昇降口に吸い込まれていく。未来は片手で髪をかきむしりながら立ち上がった。
(どうでもいい。生まれてきたことが間違いだったんだ)

第二話に続く



  


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