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パリ万博 1867年 (1889年の前に)


1867年と1889年のパリ万博について。

フランスの音楽教育の現場では
1871年2月25日にSociete Nationale de Musique (国民音楽協会)がロマン・ビュシーヌが会長、サン=サーンスが副会長になって設立されました。
フランス音楽と新進作曲家の作品の普及のために設立された文化団体です。創設メンバーにガブリエル・フォーレも名を連ねています。彼は1874年には協会の書記も勤めています。

のちに1890年、古楽器協会 (Societe des Instruments Anciens )がルイ・ディエメを中心に創設され、19世紀までの過去の音楽の復興を目的に設立されました。
そのような普及活動は長く続いていきます。
例えば、1895年出版のラモークラヴサン全集はサン・サーンスが監修しています。
サン・サーンスは本当に多くの仕事をフランス音楽史のために費やしました。


フォーレのことを書きましたが、1889年のパリ万博の時は44歳です。
晩婚(38歳)で結婚したフォーレはこの頃2人の息子がいて、家庭は穏やかであったものの、作曲家、歌手、ピアニスト達と親密になりなかなか派手に楽しんでいた時期です。
パリ万博に行ったかどうかは定かではありませんが、デイエメが連続演奏会をしたチェンバロには興味がなかったのでしょう。

今、1882年〜1920年頃までのパリを今ウロウロしています。
最近youtubeにもかなり古いパリの映像を見るようになりました。
1867年のパリ万博から日本の正式参加。幕府、薩摩藩・佐賀藩が出品しました。日本からの出展品は珍しがられ、いわゆるジャポニスムの契機となりました。


音楽の話は出て来ませんが。

1876年パリ万博


まさに私が今チェンバロ創世記でウロウロしている頃のパリです。


ルイ・ディエメがチェンバロで連続演奏会をしたその時の万博です。残念ながらチェンバロの話は出てきませんが。ドビュッシーの話は出てきます。



1900年パリ


渋沢栄一もパリ万博に行っています。

慶応3年(1867)3月7日、渋沢栄一はフランス・パリに到着しました。栄一は当時27歳の幕臣で、パリ万国博覧会に参列する将軍徳川慶喜の弟・昭武に随行していたのです。栄一にとって初めての異国旅。約1年半におよぶ滞在中、近代西洋社会は栄一の目に、どう映ったのでしょうか。本年は栄一が渡仏して150年という節目にあたります。この企画展では、パリから日本にいる妻や家族に宛てた手紙、日記など様々な資料から栄一の欧州体験をたどります。また、栄一がパリから徳川慶喜に宛てた書簡草稿、パリから持ち帰った書類など、初公開となる資料も展示します。栄一にとって慶応3年の渡仏とは、どのような意味を持ったのかを、あらためて考える機会となれば幸いです。(序文)


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