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移民をめぐる文学 第5回

栗原俊秀

(この連載は、2016年に東京の4書店で実施された「移民をめぐる文学フェア」を、web上で再現したものです。詳しくは「はじめに」をお読みください)

8. ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』岩本正恵、小竹由美子訳、新潮社、2016年

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 19世紀後半、イタリアと同様に日本からも、数多くの移民がアメリカへ旅立っていきました。『屋根裏の仏さま』に描かれるのは、アメリカで暮らす日本人男性の妻になるため、故郷を離れ海を渡った女性たちの姿です。作中、語り手である「わたしたち」がアメリカ人女性にたいする憧れと憎しみを吐露する場面は、ジョン・ファンテ『バンディーニ家よ、春を待て』(本リスト3)におけるマリアの心情描写にぴったりと重なります。イタリアと日本という、大きく隔たる文化的背景を持つ女性の声を、「移住者」という立場が結びつけ、共振させています。カレイ・マックウィリアムス『日米開戦の人種的側面:アメリカの反省1944』(本リスト9、草思社刊)と併せて読めば、物語の社会的背景がよく分かり、この作品の持つ奥行きに一層の深みを感じられるようになるはずです。

[栗原による追記]
 ジョン・ファンテの『デイゴ・レッド』や『バンディーニ家よ、春を待て』を訳したあとで、ジュリー・オオツカの『屋根裏の仏さま』を読んだ私は、強烈な既視感を覚えずにいられませんでした。日系とイタリア系という違いはあれど、移民の暮らしぶりは細部にわたって、たいへんに似かよっていたことを実感したのです。試みに、両者の作品から印象深い箇所をご紹介しようと思います。

昼食の時間、僕は弁当箱を自分の体で覆い隠した。なぜなら僕の母さんは、僕に持たせるサンドイッチをパラフィンで包むような人ではなく、むしろ母さんの作るサンドイッチは、レタスの葉っぱがパンから飛び出た、あまりに大きな代物だったから。さらに悪いことには、サンドイッチのパンは、家で焼かれたものだった。パン屋で売られている「アメリカン・ブレッド」ではなかった。マヨネーズや、そのほか「アメリカな」品々を食べられないことに、僕は大いなる嘆きを漏らした。(『デイゴ・レッド』、229-230頁。強調は引用者)
私たちの息子はばかでかく成長した。息子たちは毎日朝食に、味噌汁の代わりにベーコンと卵を食べたがった。箸を使うことを拒否した。牛乳を何ガロンも飲んだ。ごはんの上にケチャップをべったりかけた。(『屋根裏の仏さま』、89-90頁。強調は引用者)

 いかかでしょう。オリーブオイルでもなく、味噌でもなく、マヨネーズやケチャップの味を好む子どもたち。食習慣は、移民の第一世代と第二世代のあいだに断絶を生みだす主たる要因のひとつです。
 もうひとつ、おそらく食習慣以上に第二世代を苦しめるのが、家庭内で使われる言語をめぐる問題です。もう一度、ファンテとオオツカの作品を引用してみます。

祖母は英語をひどいアクセントで話し、絶えず母音をころころと転がしていた。いつもどおりの無邪気さで、古ぼけた瞳に微笑みを浮かべながら、僕の友人たちの一人の前に腰を落ちつけた祖母が、「シースターたちのスコーラ行くの、楽しーかい?」と言ったとき、僕の心臓は恐ろしい唸りを上げた。マンナッジャ! 僕の面目は丸つぶれだ。もはやみんなに知られてしまった、僕がイタリア人であるということが。(『デイゴ・レッド』、234頁。強調は引用者)
[子どもたちは]ラジオから聞こえるような完璧な英語をしゃべり、わたしたちが台所の竈神の前でお辞儀をして柏手を打っているのを見つけるといつも、さもあきれたという顔をして「ママ、頼むよ」と言った。
 だいたいにおいて、子どもらはわたしたちのことを恥ずかしいと思っていた。わたしたちのよれよれになった麦わら帽子やみすぼらしい服を恥じていた。わたしたちのひどい訛りを。なんも、もんだいなぁい?(『屋根裏の仏さま』、90-91頁。強調は原文ママ)

 二十世紀のはじめ、アメリカで移民として生きるとはどのような経験だったのか。移民の子どもは、両親や祖父母の世代をどんな目で見つめていたのか。こうした点に興味がある方はぜひ、ファンテとオオツカの作品をならべて読んでみてほしいと思います。

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