見出し画像

ちょいちょい書くかもしれない日記(書く)

爽やかな秋晴れの週末、しかも連休というやつだが、私は家の中で仕事である。
明日は遠出する用事があるので、今日頑張っておかねば。
家を建てた頃のこと、もっと昔のこと。猫のこと。
エッセイの原稿を書いていると、自分のこれまでの歩みを、俯瞰で見たり、見えない家族のような視点で見たりしている作家の自分に気づく。
ああなるほど、自分の思い出を書いているのに、100%主観ではないのだな。心のカメラもズームしたりぐんと引いたり、なかなか忙しいな。
おそらく、エッセイを書きたくて書けなかった年月が、自在に、意図せずとも自然に切り替わる視点を持たせてくれたのだと思う。
そしてそれがたぶん、とても大切な、私だけのスタイルを作ってくれているのだろう。
20年ほど前、某出版社の編集氏にやりたい仕事を問われ、エッセイと答えたら「エッセイ舐めんな!」といきなり怒鳴られ、凄い剣幕で罵倒されたのは、よそで抱えた何らかのむしゃくしゃをアルコールでブーストした結果のやつあたり、という説が有力である。
だとしたら、なかなかのとばっちりではあった。パーティ会場で作家が編集者に怒鳴られるって、なかなかないよね。
そのときの恐怖があまりにも大きくて、エッセイを書きたいとどうしても言い出せず、20年も足踏みをしてしまった。
でも、結果オーライだと思うことにしよう。
確かに、若いうちに自分自身と周囲について書き始めると、「ネタ探しのための生活」という、実にいけない沼にはまる気配がする。

仕事を始めてしばらくしたら、猛烈に頭が痛み始めた。
たぶん昨夜、先に布団に入ってぐっすり寝ていた末猫に遠慮して、変な姿勢で寝たからだと思う。
凝りから来る頭痛の最上位のやつだ。
でも、それだけではない、ちょっとシリアスめの不調も感じる。
水を飲んでも吐き気がするので、とりあえず仕事は諦め、今度は正しい姿勢で横になった。
そのままおやつの時間くらいまで、一度、宅配便を取りに出た以外は目覚めなかったので、やはりまだ十分に復調できていないということなのだろう。
私は頭痛には昔からすこぶる弱く、痛みに耐えて動くということが一切できない。
頭痛薬を飲むよりは、今の体調だと、素直に身体からの警告と受け取ってやすむがよかろう、と考えることにした。
起きても痛みは残っているがまだマシだし、根本的な解決を図るほうがいいなと思い、ぬるめの風呂に浸かった。
浴槽が愛おしくなる季節が、ようやくやってきた。

母の暮らしを少しでも豊かにするべく、街中でパイセン女子たちを見かけると、ついその会話に耳をそばだててしまうようになった。
母と同年代の女性たちが何に興味を持っているのか、何が嬉しいのか、切実に知りたいのである。
先日、パイセンたちが「季節のお花」について語っているのを聞き、いいなあ、と思った。
確かに、花は季節を感じさせてくれる大きな要素だ。
しかし、かつてSNSで施設職員さんのポストにあった、「何かといえば家族が花を持って来るが、誰が水やりや水の交換をすると思ってるんだ!」という怒りの声を思い出し、花は絶対アカンな、と心の中で却下する。
そう、職員さんのお手間を増やすものは避けねば。
母はアートフラワーの類をあまり好まなかったし、ベッドサイドの小さな机の上を、あまりゴチャつかせないほうがいいだろう。
転倒の危険が常にある人だから、室内は極力シンプルに保つほうがいいはずだ。
だったら、壁面を飾ろうか。お花のポスターはどうかな。動物のほうがいいかな。
好きなもの、綺麗なもの、可愛いものが目に入ったら、微笑んでくれるかな。
仕事をしながら、頭の片隅で思いを巡らせている。
母に会える機会がぐんと減り、してあげられることが限られている今だからこそ、自分にできることについて、以前よりよく考えるようになった。
あんなに大好きだったテレビとお菓子にすら興味を示さなくなった母に、私は何をしてあげられるだろう。
穏やかで安全で快適な、日常のことをすべてプロの手に頼る暮らしは、緊張や刺激とは無縁だ。
認知症の進行が加速することは、はなから承知していた。
でも、身勝手な娘は、母に笑って暮らしてほしいな、と願ってしまうのである。

いいなと思ったら応援しよう!

椹野道流
こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。