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ちょいちょい書くかもしれない日記(うそんこホリデイ)

猫の世話と、家事と、もはや日課になっているプチ片づけ(ランダムに立ち止まった目の前の部分だけ片付ける)からは逃れられないが、連休最終日、引きずっている体調の悪さを清算すべく、休日と定めた。
とはいえ、好きなことをしていいよ、と自分に言ったら、仕事をしてしまう悲しき人類である。
猫たちに付き合ってもらって、まずはゆっくり二度寝を……と思ったら、五月雨式に荷物の配達があって、おちおち寝ていられない。
やむなく起きて、交通費の請求データなどを作成した。
スキャナーを買ったおかげで、自宅でデータ化の作業ができるようになり、たいへん助かる。
何となく、太古の巨大なフラットヘッドスキャナーのイメージがあり、二の足を踏んでいたのだが、今のスキャナーは小さく賢く仕事が早い。
もっと早く買えばよかった。
データを送って、干し芋を小さいまきストーブで炙りながら、今度はうんと昔の自分が書いたものを読み始めた。
これはおそらく他人が思うよりずっと重い苦行なのだが、仕事に必要なので仕方がない。
つまるところ、仕事をしているようなものだが、打ち出しを読んでいるので少なくとも目には優しい……気がする。
ちょっと読んでは耐えられなくなり、打ち出しを脇に措いてしまう。
そういうときは、少しでも本棚の本を減らすべく、「これはもしかしてちょっと求めてたやつと違うん違うか?」と感じる本から読んでいく。
そのカンが当たって処分の箱へより分けられるものもあるが、「求めてたんとは違うけど、これはこれで……」となってしまうものも多い。
そういうものほど、あとで仕事に必要な存在となるのだ。
この「あとで」が怖くて、なかなか本を処分できない。
そう言うと、ドヤ顔で「データで保存しておけばいいですよ」と頼んでもいないのにアドバイスしてくる謎の民族が存在するのだが、ひとからげにして黙らっしゃいである。
データで保存してしまうと、無印ガンダムでシャアやアムロにピシャーンと走っていたニュータイプ的なやつ、そう、「確かあのあたりにあったあの本がもしや!?」というひらめきが機能しないのだ。
データになった本は、一生その存在を思い出されることなく、電子積読の谷に落ちていく。それだけだ。
娯楽で読む本はデータで買うことが多いが、仕事で使うかもしれない本は紙で買う理由はそのあたりにある。
「あのへんに置いた」「あのあたりで見た気がする」という記憶は、何故かもとからおぼろげなまま、何十年でもそれ以上は衰えず、頭に残っている。

そういえば成人の日か、と夜になって思い出した。
地元の成人式は友達にも会わず(ほとんどみんな隣市在住だった)、何の面白さも楽しさもなかったが、夜に、当時は3人いた祖父母を両親が招き、祝いの席を設けてくれた。
普段は絶対に行けないような格式高い料亭に連れていってくれたこと、前菜の料理の上に置かれた蓮の葉と、そこに散らされた水滴の美しさを今も鮮やかに覚えている。
正直、振り袖が苦しくて早く家に帰りたかったことも。
でも、特に私が初孫である父方の祖父にとっては、孫が成人するというのは大きな節目だったのだろう。
無口で無表情な人だったが、その夜は終始笑顔だった。
あの頃の祖父と、今、話したいなあ。
いや、別に話さなくてもいいや。ただ、同じ空間で一緒にいたいなあ。

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椹野道流
こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。