ちょいちょい行くかもしれない日記(鎌倉)
業界の兄、高田崇史氏のファンの方々の集いにお邪魔することになった。
公暁を主人公とした演劇……の前に、高田兄のミニトークショーがあるというので、是非とも拝聴せねばと思ったのだ。
ただ、場所が遠い。
バチクソ遠い。
いや、テーマが公暁ならしょうがない。鎌倉なのだ。
でも、わざわざ日曜日の、鶴岡八幡宮のお祭りに合わせなくても……いや、それも第四代別当を務めた公暁なのでしょうがないのか。ないな。
そんなわけで、朝から新幹線に乗って、新横浜で降り、鎌倉へと向かった。
新幹線の中で微妙な具合の悪さを感じ、あ、これは……と持参の塩ナッツを摘まんで麦茶をたっぷり飲んだら治まった。
桃と野菜ジュースを朝食にしたけれど、早くも塩分が足りていなかった模様。
暑いもんね。こんな日は家にいたほうがいい、マジで。
それにしても、日本史、私たちが習ったのと内容があちこちで変わっていてちょいちょい驚かされる。
公暁も、「くぎょう」と教わって疑いなくそうだと思っていたら、今回、正しくは「こうぎょう」だよと高田兄に言われて、思わず「なんで!?」と言ってしまった。
何でも何もないのだが。そうなのか~。
まずはファンの方々と合流し、鎌倉の賑やかな通りの一角にある瀟洒な建物、「英国アンティーク博物館(BAM)」に二度目の訪問を果たす。
高田兄は途中から参加するらしい。
私だけが先に混ざってるこれ意味ある……? と不安ばかりが募るが、まあ来てしまったのだから仕方ない。
BAMは規模こそ小さいが、選び抜かれた素敵なアンティークが揃う、よき博物館だ。
館長さんの想いがピシッと行き届いていて、民営の博物館はこうであってほしい、と思う。
展示品がとても無造作に置かれていて、触らないでねと最初に注意を受けるし、監視カメラも当然設置されているが、基本的には客の良識に依存するスタンスだ。
カメラとて死角はあるだろうし、すぐに駆けつけても、不心得者が狼藉をはたらく猶予はできてしまうだろう。
見知らぬ人をそんな風に信用するというのは、なかなかできないことだと思う。
暑すぎるので、BAMのすぐ近くの空調をギリギリまでケチっ……もといエコなカフェで待機する。
スパイシーなレモネードはとても美味しかったが、レモンの細切りがストローにいちいち詰まる。
スタバのフラペチーノを頼んだとき、氷の塊がストローに詰まるのと同じタイプのイラッと感があった。
午後4時前、この暑いのにお洒落に決めた高田兄が到着し、みんなで早い夕食を摂るべくお蕎麦屋さんに移動。
シンプルなお蕎麦と、しらす丼のセットをいただく。
生まれて初めて食べたしらす丼は、たっぷりの薬味(特に泥団子のようなサイズの大根おろし)のおかげもあって、飽きずにさっぱりいただけた。
新鮮で小さいサイズの釜揚げしらすというのは、とても美味しいものなのだと知った。
食事のあと、「公暁-Revolution-」が上演される会場へまたみんなで移動。
私は残念ながら中座を余儀なくされたのだが、お客さんの入りは上々だった。
会場のサイズ感も、大きすぎず小さすぎず、いい感じだ。
開演ギリギリまで何故か客席をウロウロしていた高田兄は、ご自身が歌詞を担当した楽曲「実朝」の演奏・歌唱が披露されたあと、舞台に登場した。
演台も何もなく、舞台のど真ん中にマイクスタンドを立ててひとりで喋るというのはなかなか……なかなか大変そうだ。
見たことがないくらい緊張している兄の姿に、思わずハラハラしたけれど(誰か、お水くらい持って行ってあげてー! とは思った)、短い時間で「!?」となるくらい圧縮された内容のお話をしていかれた。
遅い時間帯、特に日曜の夜の新幹線には、独特の雰囲気があるように思う。
濃い疲労が車内に薄いヴェールのようにかかっている。
ふと、こんなに遅い時間なのに、もう何の心配も憂いもなく席に座っていられるのか、と不思議な気持ちになった。
昨年の夏までは、午後6時を過ぎた途端、母から「どうして夕飯を作りに来ないの」「私は何を食べたらいいの」「足が痛くて、免許も取り上げられて(自分で返納したのだが)どこへも行けないのにこんなに放っておかれて」と、5分、10分おきに電話がかかってきて、どうかなりそうだった。
母の認知症には、「ルーティンへのこだわりが異常なまでに強化される」という症状があった。
「午後6時になったら、私がやってきて一緒に夕飯を作って食べる」というのが、彼女の中で言うなれば1日のメインの行事になっていたのだと思う。
なので、それが崩れると、たちまち大パニックに陥ってしまうのだ。
たとえ朝に「大丈夫よ、お仕事頑張って、急がずにゆっくり帰っていらっしゃい」と笑顔で言ってくれたとしても、母はあっという間に忘れてしまう。
私の場合、認知症患者を抱える地味なしんどさは、そのあたりにあった。
あんなにハッキリ「大丈夫、ちゃんと覚えているわよ」と言ってくれたのだから、今日こそは私が遅くなることを本当に覚えていてくれるのではないかと期待して、こっぴどく裏切られる。
勝手な、そして無意味な期待なので自業自得なのだが、つらかった。
無論、母はひとりで夕飯を用意することができないとわかっていたし、父は母から全力で逃げていたので、たとえ仕事先が東京であっても、私は必ず日帰りをしていた。
とはいえ午後6時までに帰宅するのはとうてい無理だ。
新幹線の中ではほとんどデッキにいて、母からの電話を受け、何とか宥めようとしていた。
でも、一度は納得してくれても、それは数分も続かず、またゼロに戻って怒りと嘆きを爆発させる。
本当にしんどかった。
あの地獄は、ひとまず終わったのだな。
母が新型コロナに倒れてから1年近く経って、やっと実感できた気がする。